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不動産雑記帳

 

 

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あ行

お性根(しょうね)入れ

 新しく仏像を作った際、「最後に目を描くことにより仏像が魂の宿った仏像になる」という言い伝えに由来しています。

 

お焚き上げ(おたきあげ)

 お焚き上げとは、神仏に関わるものや、思いがこもったものなどを、お寺や神社などで焼いて供養することです。

地域によっては、「どんど焼き(周南地区ではこの名で呼ぶことが多いです)」「左義長(さぎちょう)」などと呼ばれます。 

古くから神棚、仏壇、仏具、正月飾り、お守り、だるま、人形、ぬいぐるみといった粗末にできないものに、お焚き上げ供養が行われてきました。

 

 

か行

勧請(かんじょう)

 ある神社の神霊を分けて(分霊)、新設した別の神社にも祀ること。

神道では、心霊は無限に分けることができ、分霊しても元の神霊に影響はなく、分霊も本社の神霊と同じ働きをするとされる。

 

私が牛です。不動産専門です。
私の頭をなでるとよい物件に出会えます(?)。

御神牛(ごしんぎゅう)

菅原道真公(天神様)と牛のご縁はたいへん深く、さまざまな伝承や縁起が残されています。

道真公は承和12年(845年)の乙丑(きのとうし)生まれであることで、牛を大変大切にされたと伝えられています。

京都から太宰府に左遷されるときに牛が泣いて見送ったとか。

道真公が59歳の春に亡くなられたとき、亡骸を乗せた牛車(ぎっしゃ)が、都府楼(大宰府の庁舎)の方向へ向かって進んでいたところ、間もなくその牛が伏して動かなくなりました。それを道真公の思し召しによるものだとして、牛車の止まったところを御廟所として亡骸を葬ったそうです。

そんなことから、道真公を祀る天満宮にはうつ伏せの御神牛が奉納されるようになりました。

御神牛は、「なで牛」とも呼ばれていて、詣でた人の体の悪いところをなでると、痛みが治るといわれています。

「知れば知るほど好きになる」

 

さ行

 

素封家(そほうか)

 金持ち。財産家。その土地の名望家。

 (大辞林)

 

た行

 

体育の日

 「スポーツに親しみ、健康な心身をつちかう」ことを趣旨として制定された祝日です。 

かつては「10月10日」が体育の日でした。1964年の東京オリンピック開会式が行われた日を記念して1966年から国民の祝日とされました。

2000年(平成12年)からは、「ハッピーマンデー制度」の適用により、体育の日は毎年の10月の第2月曜日に変更されました。

2020年、再び東京でオリンピックが開催されます。体育の日はスポーツの日に名称変更します。

2020年に限って、「スポーツの日」は7月24日の金曜日に制定されます。

2020年の祝日移動が盛り込まれた法案の正式名称は、「平成32年東京オリンピック競技大会・東京パラリンピック競技大会特別措置法」略してオリパラ特措法などと呼ばれています。

体育の日は英語で「Health-Sports Day」あるいは「National Sports Day」といいます。

 

朝鮮鐘(ちょうせんがね)

 元朝鮮で鋳造された銅製の鐘。朝鮮にはあまりなく、日本に多く伝わる。(大辞林)

は行

 

ハッピーマンデー制度

 ハッピーマンデー制度というのは、法改正により特定の祝日を月曜日に固定することで、祝日が平日の間に来ないように、あらかじめ月曜日に定めておくことで、土曜日、日曜日、月曜日の三連休となるようにしておくものです。

ハッピーマンデーの設定は、アメリカ合衆国にある同様の制度の設定に習ったものです。

祝日には日程が固定されている祝日と「ハッピーマンデー」になる祝日があります。

この制度に適用されるのは15ある祝日のうち、4つのみです。

「国民の祝日に関する法律の一部を改正する法律」によって「成人の日」および「体育の日」が、「国民の祝日に関する法律および老人福祉法の一部を改正する法律」によって「海の日」および「敬老の日」が、それぞれ月曜日に移動しました。

 

成人の日 1月の第2月曜日

 成人の日は1999年までは1月15日でした。

海の日 7月の第3月曜日

敬老の日 9月の第3月曜日

 敬老の日は2002年までは9月15日でした。

体育の日 10月の第2月曜日

 体育の日の由来は、1964年に東京オリンピックが開催され、開会式が10月10日に行われたことから10月10日に定められていました。

 

「ハッピーマンデー制度」ができた理由は、連休を増やすことによって国民が旅行などに行く機会を増加させるという、経済政策的な側面があるそうですが、制度の狙いの旅行する人の絶対数が増えたかといえば、年間を通してみると、ほとんど変わらないそうです。

 

ま行

万役山事件(まんにゃくやまじけん)

 正徳5年(1715年)、徳山藩3代藩主のとき、周防国の久米村万役山の松の木を1本を切り取った萩本藩領地の農民・喜兵衛を、徳山藩の山役人が切り殺すという事件がありました。

万役山は、萩藩と徳山藩の境界にある山でした。

この事件から、万役山が萩領か徳山領かの領地争いとなり、双方がが領地として譲らず、萩藩主は、「支藩が本家に対して藩校比例あり」として江戸幕府に徳山藩に対する処置を請願しました。

幕府の裁定は、「本家に反抗した元次は不遜である」として、徳山藩の改易と元次の新庄藩お預け等の厳しいものでした。

どうも、萩藩主・毛利義元はそこまでなるとは考えてなかったようです。

後に、徳山藩士(奈古屋里人等)の主家再興の誠意努力が江戸幕府の心を動かし、享保4年(1719年)5月に徳山藩は再興されました。

なお、騒動の発端となった万役山は、享保4年(1719年)12月に萩藩領となり、徳山藩へはその換地が与えられています。

 

や行

 

有職読み(ゆうそくよみ)

 藤原定家を「ていか}と読むなど、歌人の名を音読みすることでした。

近代ではそれをまねて、有名人の名を音読することも有職読みというようになったようです。 

有職読みは諱(いみな:下の名前)に使われる用語であり、姓に対しては使われません。

現在では多くの政治家、創作家、芸能関係者など、広く一般の人に名前を呼ばれることの多い人物が、本来の読みがわからないときに音読みで呼びかけられることが多いです。

 

人 物 音読み 本来の読み 備 考
藤原定家 フジワラノテイカ サダイエ 平安時代末期から鎌倉時代初期にかけての公家・歌人。「小倉百人一首」の選者
伊能忠敬 イノウチュウケイ タダタカ 江戸時代の事業家・天文学家。49歳で隠居し、50歳の時に江戸に出て、天文・暦学を学んだ。寛政12年(1800年)から文化13年(1816年)の17年をかけて日本全国を測量し、「全日本沿岸輿地全図」を完成させ、国土の正確な姿を明らかにした。
二宮尊徳 ニノミヤソントク タカノリ 江戸時代後期の経世家、農政家、思想家。生涯に615の村を立て直したといわれています。武士の位を授けられて尊徳と改名するまでは金次郎。
木戸孝允 キドコウイン タカヨシ 桂小五郎。革命家。萩藩医和田家に生まれる。7歳で桂家の養子となり、武士の身分を取得。吉田松陰に師事。剣術修行を名目とする江戸留学を藩に許可され、三大道場の一つ、練兵館(神道無念流)に入門。免許皆伝を得て、入門1年で塾頭となる。維新三傑の一人。慶応2年、長州藩の代表として、坂本龍馬の仲介により京都で西郷隆盛と薩長同盟を締結。薩長主導による武力討幕を成し遂げ、新政府を樹立。版籍奉還・廃藩置県を推進。明治4年(1871年)岩倉使節団の全権副使として欧米を視察、帰国後は内治優先を主張して征韓論に反対する。明治10年、西南戦争中に病死。享年45歳。墓所は坂本龍馬や中岡慎太郎など多くの勤王志士たちと同じく、京都霊山護国神社にある。
榎本武揚 エノモトブヨウ タケアキ

武士、化学者、外交官、政治家。

伊能忠敬の元弟子であった榎本武規の次男として生まれる。

榎本武揚(釡次郎)の兄の名は鍋太郎であったが、これはは父親が「鍋と釡さえあれば食べていけるだろう」として名付けた。

15歳で昌平坂学問所(昌平黌)に入学し、ジョン万次郎の私塾で大鳥圭介らと英語を学ぶ。

1854年、19歳のとき、蝦夷地・函館に赴き、樺太探検に参加。

安政3年(1853年)、幕府が新設した長崎海軍伝習所に入所し、国際情勢や蘭学、航海術、化学などを学ぶ。

文久2年(1862年)から慶応3年までの5年間、オランダに留学する。オランダでは国際法や軍事知識、造船や船舶に関する知識を学んだほか、1864年、デンマーク戦争を観戦武官として観戦。

慶応3年(1867年)3月、横浜港に帰着。

幕府から海軍副総裁に任命され、実質的に徳川海軍のトップとなる(31歳)。

徳川慶喜が大政奉還を行い、鳥羽・伏見の戦いが起き、続いて戊辰戦争が起きる。

新撰組副長の土方歳三らと五稜郭を占拠し、「蝦夷共和国」樹立を宣言。士官以上の選挙により総裁に就任。

新政府軍は旧幕府軍に降伏勧告の使者を送るが、榎本らは拒否したが、オランダ留学時に入手した「海律全書」を黒田清隆に届けさせた。この時から、黒田と榎本の奇妙な友情が始まった。

函館戦争の実質的な戦闘期間は2か月ほど。

榎本は属の首謀者として捕縛される。

2年半の収監後、明治5年、敵将・黒田清隆の尽力により特赦で出獄した榎本は、駐露特命全権大使として「樺太・千島交換条約」の締結を実現するなど、目覚ましい活躍をする。

明治7年、榎本は駐露特命全権公使に任命され、ロシアとの領土交渉にあたり、約1年間の交渉の末、「樺太・千島交換条約」を締結するに至りました。この条約により、樺太全党は日本が領有することが決まりました。

明治24年、北海道開拓に関与した経験から、徳川育英会育英学農業科(現・東京農業大学)を創設し、自ら学長となる。

明治32年4月、黒田清隆の娘と、長男・榎本武憲が結婚

明治33年、盟友・黒田清隆の葬儀委員長を務める。

明治41年7月逝去。享年73歳。

福沢諭吉は、榎本武揚と勝海舟の変節ぶりを厳しく批判しています。「二人とも、徳川幕府より禄を得て要職にあった」にもかかわらず、維新後には仇敵だった新政府に仕え、榎本などは立身出世の街道を歩んでいる。これらは、武士の風上にも置かれぬことだ」という具合です。

徳川慶喜 トクガワケイキ ヨシノブ

生没年 天保(1837年)8年9月29日~大正2年(1913年)11月22日。享年77歳。

号・別称 一橋慶喜

愛妾・お芳(新門辰五郎の娘)

第9代水戸藩主・徳川斉昭と母・登美宮吉子女王の7男として生まれた。

英邁さで知られ、「権現様の再来」とその英明をたたえられた。

1847年、安倍正弘の口添えによって慶喜は11歳で一橋家を相続する。

文久2年(1862年)、将軍後見職となる。

江戸幕府第15代将軍。徳川最後の将軍。在任中に江戸入城しなかった唯一の将軍であり、最も長生きした将軍。

慶応2年(1866年)、第二次長州征伐では、薩摩藩の妨害を抑えて徳川慶喜が長州征伐の勅許をえた。

12月、将軍に就任。

慶応3年10月、大政奉還を行い、徳川幕府の復権を図るも、討幕派に破れ恭順、謹慎。

慶応4年1月3日、鳥羽・伏見の戦いが勃発。戦いの最中に大阪から江戸へ退去したことは、「敵前逃亡」と敵味方から大きく非難された。

明治2年(1869年)、謹慎解除。

明治35年(1902年)、大政奉還が高く評価されるようになり公爵に叙せられ、貴族院議員にも就任し、35年ぶりに政治に携わった。

実業家の渋沢栄一と親交がありました。

父・斉昭と同じく薩摩産の豚肉が好物で、豚一様(ぶたいちさま、「豚肉が好きな一橋様」の意)と呼ばれていた。

伊藤博文 イトウハクブン ヒロブミ  
原敬 ハラケイ タカシ

生没年 1856年3月15日~1921年11月4日(享年65歳)

出生地 現・岩手県盛岡市(南部藩の家老の家に生まれた)

出身校 司法省法学校(現在の東京大学法学部)(退学)

ジャーナリスト、政治家、首相。

明治から大正時代に活躍した政治家。伊藤博文に信任されて立身。陸奥宗光にも認められる。

エブラルという宣教師から、フランス語、歴史、世界の情勢、人間の生き方まで幅広く学ぶ。

薩長を中心とする藩閥政治を打破して、政党政治へと脱皮することに、政治家としてのエネルギーを注ぎ続けた。藩閥打倒の戦いは、山形有朋閥との戦いでもあった。

所属政党 立憲政友会。

第19代内閣総理大臣。

平民宰相(平民出身の初めての総理)の名で親しまれ、国民の圧倒的人気を集めていた。

政党政治を実現した最大の功労者。

大正10年、東京駅で暗殺された。

「わけ入りし 霞の奥も 霞かな」

原はよく「宝積」という言葉を揮毫した。仏教用語で「尊いものを積み重ねる」という意味。

浜口雄幸 ハマグチユウコウ オサチ

生没年月日 1870年(明治3年)4月1日~1931年(昭和6年)8月26日。

山林官を勤める父の水口家の3人兄弟の末子として、高知県に生まれる。

幸雄と命名していたが、父親が出生届を出しに役所に行く途中で酒を飲み、酩酊状態となり、名前を前後逆に記入した届が受理されて雄幸となった。

五台山唐谷は、浜口が生まれ少年時代を過ごしたところである。「浜口雄幸生家を補修復元する会」によって、生家が復元され、1994年4月1日、雄幸の誕生日に開館された。雄幸が精神の形成期を過ごしたこの土地には、今もそのころの雰囲気が漂っている。

1889年、素封家・浜口義立の長女夏子と結婚し、浜口家の養嗣子となる。

出身校 帝国大学法科大学(1895年卒業)

大蔵省に入る。

官僚人生を歩んでいた浜口を政界に引き入れたのは、後藤新平。

三菱財閥と太いパイプを持つ。戦前の政党政治はこのような面をもっていた。

官僚出身の政治家の多くが爵位を得て貴族院議員になるのに対して、浜口は衆議院議員にこだわり続けた。

1929年(昭和4年)、田中儀一内閣の総辞職に伴い、浜口雄幸立憲民政党内閣が成立。政治空白は許されないとしてわずか1日で組閣を行った。

第27代内閣総理大臣

その風貌から「ライオン宰相」というあだ名が付けられた。

天皇のお気に入りでもあった。

剛直で正直、清貧の浜口首相は世間から支持された。

1930年、ロンドン海軍軍縮会議で条約を結ぶ。条約の締結に一部の海軍関係者が納得しておらず、是が統帥権干犯問題として浮上してゆく。

財界から信任のある井上準之助前日本銀行総裁を蔵相に起用して、経済再建のため、金解禁(金本位制復活)を断行。

当時、日本経済はデフレの真っ只中にあり「嵐に向かって雨戸を開け放つようなものだ」とまで批判された。

緊縮財政と軍縮に取り組んだ。浜口の考え方の基礎には「いくら軍備を拡張しても国力の差から英米と戦って勝利することは不可能である」というリアルな現実認識があった。

日本の首相では初めて、当時最新のメディアであったラジオを通じて国民に直接自身の政策を訴えた首相でもある。

浜口の目指す方向は、中国における特殊権益の拡大や軍備拡大こそが日本の安全と利益につながると考える軍部や右翼勢力と対立するものだった。

前年の1929年にアメリカで大恐慌が始まっていたというタイミングの悪さもあり、景気は予想以上に減速する。

1930年11月14日、東京駅ホームで、統帥権干犯に憤った青年に銃撃された。

当時、原敬暗殺事件以降、駅における首相の乗降時は一般人の立ち入りを制限していたものの、首相自身の「人々に迷惑をかけてはならない」との意向により、立ち入りは制限されていなかった。

浜口の口癖は「男子の本懐」で、彼が暴漢に狙撃された時もこの言葉をつぶやいたといわれている。

この事件は、政府要人が次々と暗殺の標的となった五・一五事件、二・二六事件へと連なる前兆であり、日本が軍事国家へと変貌を遂げていくきっかけとなった。

大野伴睦 オオノバンボク トモチカ

1890年(明治23年)9月20日~1964年5月29日(73歳没) 

岐阜県出身。

出身校 明治大学政治経済学部

昭和時代の政治家。代表的な党人派政治家。

1930年、衆議院議員に当選。40年の翼賛選挙に非推薦で落選したほかは、その死まで当選13回を数えた。

「政治は義理と人情だ」「猿は木から落ちても猿だが、政治家は、選挙に落ちればただの人」などのの名言を残す。

大野は新幹線を迂回させることのない岐阜羽島駅を誘致し、岐阜羽島駅前には大野夫妻の銅像が立っています。

力道山の後援者であり、プロレスコミッショナーも務めた。

山崎 拓 ヤマサキタク ヒラク

生年月日 1936年(昭和11年)12月11日

出生地 関東州大連市(現在は中華人民共和国の大連市)

小学校3年生の時に、片目を失明し、隻眼となる。

出身校 早稲田大学商学部

柔道6段、囲碁5段、日本ソフトボール協会の会長

1972年、秀銀議員初当選以後12回当選(福岡2区)

加藤紘一、小泉純一郎と並ぶYKKの一角。

2000年、加藤紘一とともに森内閣の倒閣運動をしたため失脚(加藤の乱)。

2001年~2003年 自民党幹事長

2003年、衆院選に出馬したが、愛人疑惑報道などの影響で落選。

近未来政治研究会、最高顧問。

何事にもチャレンジし、あきらめないことの大切さを「CAN DO精神」という言葉に集約する。

山崎が尊敬する人物は、東京裁判においてA級戦犯として死刑になった元首相の広田弘毅。山崎の母校・修猷館(しゅうゆうかん)高校の大先輩。

著書「憲法改正-道義国家をめざして」

菊池 寛 キクチカン ヒロシ

生没 1888年(明治21年)12.26~1948年(昭和23年).3.6(59歳没)

香川県高松市生まれ。7人兄弟の4男。

代々高松藩儒学者の家柄。

中学のとき、図書館の蔵書2万冊を2年間で読破する。

出身校 京都帝国大学英文科

小説家、劇作家、実業家。

1923年、私費で雑誌「文芸春秋」を創刊。定価は10銭で、「中央公論」が1円、「新潮」が80銭の時代に破格の安さだった。

1929年、日本麻雀連盟の初代総裁。

1935年、芥川賞、直木賞を設立。

1938年、菊池寛の提唱により、先輩作家の業績をたたえ、敬意を表するための賞として「菊池寛賞」を制定。

第62回菊池寛賞は、タレントのタモリが受賞した。

戦前は馬主として多くの有力な競走馬を所有した。

1943年、映画会社「大映」の社長に就任、国策映画作りにも奮迅した。

個人的には、横光利一、川端康成、小林秀雄らに金銭的な援助を行った。

「人生は一局の将棋なり 指し直す能わず」

喫煙者であったが、灰皿を使う習慣がなく、畳やいすのひじ掛けでたばこをもみ消していたため、家じゅう焼け焦げだらけだったらしい。

代表作 「屋上の狂人」「父帰る」「忠直卿行状記」「恩讐の彼方に」「真珠婦人」

正妻以外に多数の愛人を持っていたとされ、そのうちの一人に、「小森のおまちゃま」で親しまれたタレントで映画評論家の小森和子もいた。

菊池寛記念館

 香川県高松市昭和町Ⅰ-2-20 サンクリスタル高松3F

 ℡ 087-861-4502

横光利一 ヨコミツリイチ トシカズ

生没 1898.3.17~1947.12.30(49歳)

福島県北会津郡生まれ。

大正・昭和時代の小説家。

出身校 早稲田大学政治経済学部除籍

菊池寛に師事。

川端康成らと「文芸時代」を創刊。新感覚派として活躍。

代表作 「日輪」「蠅」「春は馬車に乗って」「上海」「旅愁」「微笑」

松本清張 マツモトセイチョウ キヨハル

生没 1909年12月21日(2月12日)~1992年8月4日(82歳没)

福岡県小倉市生まれ(戸籍上)

出身校 板櫃(いたびつ)尋常高等小学校

小説家(42歳で作家の道へ)

700以上の作品を発表

印刷工など種々の職を経て朝日新聞西部本社に入社。

ミステリー作家として著名ですが、単なるミステリーにとどまらず、そこに深い人間ドラマが描かれているのが松本清張作品の魅力です。

文芸春秋とは、芥川賞受賞以降、晩年まで密接な関係を持ち続けた。

代表作 「西郷札」(デビュー作)『或る「小倉日記」伝』(芥川賞受賞)「点と線」(大ベストセラー)「眼の壁」「昭和史発掘」(吉川英治文学賞)「ゼロの焦点」「黒い画集」「わるいやつら」「けものみち」「砂の器」「黒革の手帳」「昭和史発掘」(菊池寛賞)「日本の黒い霧」

 ➡【座談会】異なる世代のファンが「松本清張」を語る 

 ➡北九州市立松本清張記念館

       

 

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