2018/11/15 登記事項証明書

 不動産の登記事項証明書(または全部事項証明書)は、「表題部」「権利部(甲区」「権利部(乙区)」「共同担保目録」、最大で4種類の欄が記載されます。

登記事項証明書は、登記所(法務局、支局、出張所)で取得できます。

登記所の受付は、月曜日から金曜日の8:00~17:15です。昼の時間帯も大丈夫です。

登記事項を紙に記録して、地域ごとにバインダーでとじたものを「登記簿」と呼び、必要なページをコピーしたものを「登記簿謄本」と呼んでいました。

登記簿の紙は丈夫で、何千人、何万人が閲覧していたことでしょうが、擦り切れて文字が読めなくなっている登記用紙を見たことはなく、人が同じように紙をめくっていたのでしょう、よく閲覧される登記簿ほど紙がめくる人の指に慣らされて、波打っていました。

現在(2008年から)、登記事項は磁気ディスクに記録されていて、その内容を用紙に印刷して証明するものが「登記事項証明書」です。記載される内容は登記簿と同じです。

登記簿の紙は丈夫で、何千人、何万人が閲覧していたことでしょうが、擦り切れて文字が読めなくなっている登記用紙を見たことはなく、人が同じように紙をめくっていたのでしょう、よく閲覧される登記簿ほど紙がめくる人の指に慣らされて、波打っていました。

最近は見ることもなくなりましたが、閉鎖登記簿の閲覧を申請すると出されるはずです。

 

オンライン化により現在では、登記事項証明書は全国のどの法務局においても受け取れるようになりました。

 

住宅ローンの申し込みをするときには、登記事項証明書も必要書類の1つになります。

2018/10/23 不動産登記

 不動産を手に入れても登記を行わないと法的に保護されません。

不動産登記とは、不動産の種類、所有者、権利関係を記録したものです。登記の記録をまとめたものを登記記録といいます。

不動産登記簿は一般に公開されていて、だれでも閲覧することができますし、登記事項証明書を取得することができます。

登記簿とは、個々の不動産に関する登記事項を記載した登記用紙を自由に加除できるバインダー式の帳簿です。現代ではコンピューター化されましたので、その存在は年々薄れていっているように感じます。

登記手続きは、不動産の所在地を管轄する法務局で行います。

不動産登記は、民法・不動産登記法およびその他政令等によって規律されます。

登記手続きの専門家として、司法書士がいます。法律の条文では本人申請が原則のようですが、一般人では登記手続きを経験された人は少ないでしょうから、司法書士に依頼する方が無難です。

 

不動産登記は次のような時に必要になります。

○建物の新築・増築・解体

○不動産の購入・売却・相続・贈与

○借入金の担保設定・借り換え・完済

 

他人の依頼を受けて、報酬を得て、不動産の登記を行うことができるのは、

○表示に関する登記(建物を新築した場合などに、不動産登記簿の表題部になされる登記)は、土地家屋調査士

○表示に関する登記以外は、司法書士

 

■登記の種類

 不動産に関する登記は、「不動産の表示に関する登記」と「不動産の権利に関する登記」の2種類に大別されます。

 

○不動産の表示に関する登記

①表示登記

 建物を新築すると、建物の所在地番、家屋番号、構造、床面積、建物の新築年月日、所有者の住所氏名などの登記申請をします。この登記を「建物の表示登記」と言います。

現況とは一致せず、現況と異なる場合は変更等の登記を行います。

建物の表示登記には登録免許税がかかりません。

②所有権保存登記

 建物を新築した人が、最初にする所有権についての登記を、所有権保存登記と言います。

登記簿の甲区欄(所有権に関する登記欄)に初めてなされる所有権の登記で、所有者の住所・氏名、新築の日付等が記載されます。

この登記によって、所有者は所有権を主張できます。これを法律上では対抗力といいます。

③土地分筆登記

 土地の一部を売りたいとき、遺産分割などで土地を分けたい場合などに行います。

④土地合筆登記

 複数所有する土地をまとめたい場合に行う登記です。

⑤土地地目変更登記

⑥土地地籍更正登記

 土地の登記簿上の面積と実測面積が異なる場合で、正しい面積に更正したい場合に行います。

⑦建物滅失登記

 建物を解体したり火事で焼失した場合は、建物の所有者が1か月以内に建物滅失登記の申請をしなければなりません。登記を閉鎖するために行うのが建物滅失登記です。

建物が共有名義の場合は、共有者の一人からでも申請することができます。

解体した(焼失した)建物が付属建物であったり、建物の一部であった場合には、滅失登記ではなく、表題部の変更登記になります。

  建物がなくても滅失登記をしないでいると、固定資産税の納付書が送付され続ける可能性もあります。

解体した建物が付属建物や、建物の一部である場合は、表題部の変更登記になります。

 

○不動産の権利に関する登記

 権利部は、甲区と乙区の2つに分かれます。

甲区には、所有権に関する事項が記載されます。「順位番号」「登記の目的」「受付年月日・受付番号」「原因」「権利者その他の事項」が記載項目です。

原則として、最後に書いてある情報が最新の情報です。

 

 

①所有権移転登記(土地、建物を売買で取得した場合)

不動産売買や贈与、相続、財産分与などで所有権を移転する登記のことを所有権移転登記と言います。

所有権を公示するもので、大切な登記です。

②抵当権設定登記

 住宅ローンなどで金融機関から資金の融資を受けた場合に、建物や土地を担保とするために必要な手続きです。金融機関を抵当権者、借入者を抵当権設定者と言います。

③抵当権抹消登記

 住宅ローンなど融資金が完済された場合に抵当権を抹消する登記です。

金融機関から必要書類一式を受け取る必要があります。

④所有権登記名義人表示変更登記

 住所を移転した場合や、結婚、離婚、養子縁組などで姓や住所が変更された場合にする登記です。

この登記は、義務化されていませんので、登記上の住所と違う住所地に名義人が住んでいても違法にはなりませんが、不動産の所有権を移転したり、抵当権を設定する場合には、所有権登記名義人表示変更登記をする必要があります。

 

不動産登記をする際には登録免許税が必要になります。

 

 

2018/10/14 不動産という言葉

 「不動産」という言葉が世に出たのは、一説によりますと、明治に民法の編纂が行われた際に、フランス語かドイツ語を翻訳したのが始まりだそうです。日本の民法は、フランスやドイツの民法の影響を受けています。

ちなみに不動産のことをフランス語ではlmmobiliers、ドイツ語ではlmmobilienと言い、どちらも動かなないもの(不動のもの)という意味だそうです。

民法86条には、①土地及びその定着物は、不動産とする。②不動産以外の物は、すべて動産とする。

と定義されています。

土地であったり、土地に建っている建造物、立木などはすべて不動産です。

不動産には定着物も含まれます。不動産の引き渡し時にもめることがないように、当社では付帯表を作成しています。

 

 

2018/10/10 江戸時代の不動産

江戸時代、裕福な商人や大地主が「長屋」を建て、管理と貸し出しを行うようになったのが「賃貸」の始まりです。

不動産の管理を代行して請け負ったのが「差配人」「大家」と言われる職業の人々でした。現代は「大家」というと建物の所有者とほぼ同義ですが、少し違ってたようです。

不動産という言葉が初めて使われたのは、明治の時代だそうです。

 

2018/9/10 戦国時代の不動産

 

 

2018/8/10 不動産の歴史

大化の改新時(645年)は、「土地はすべて国のもの」(公地公民制)でした。

すべての土地を国が管理することで、国民の間で不公平を理由とした争い事は起きにくかったのですが。もっと豊かになりたいという欲望を満たすことはできず、農民の労働意欲は得られませんでした(現代にも通じますね)。

652年には班田収授の法(はんでんしゅうじゅのほう)が発布されて、男女、子供、奴婢にそれぞれ決まった広さの農地(口分田という)を貸し、農民から祖・庸・調という税を課しました。

祖・庸・調の取り立てはたいへん厳しいものでした。

723年に「三世一身法」(新しく開墾した土地は、本人から孫までの3代の間は土地の私有化が認められる)が制定されました。土地の所有が国から民へ移るという画期的な法でした。

しかし、この法は20年間しか続かず、新たに墾田永年私財法という勅が発布されました。

墾田(新しく開墾した耕地)は、開墾したものが永年私有化できるという法令です。

ただし、農民が国の用水路を使って土地を開発すると、その土地は国のものになってしまうという決まりがありました。結局、資金と労力を持っている貴族や寺院しか開墾地を所有することはできません。

田畑の持ち主が貴族や寺院に田畑を寄付するようになり、平安時代になると、荘園は天皇の支配する田畑(公領)よりも広大になりました。

やがて律令制(701年の大宝律令によって完成された公地公民制を基礎とする中央集権的官僚体制)が崩壊していくことになります。

また、豪族が開墾した田畑は自らの力で守らなければならず、そこで武士が誕生しました。

初期荘園(墾田地系荘園)

 主に8世紀から9世紀にかけての土地の所有形態で、初期の荘園には田祖という税金がかかりました(輸祖田)。したがって、国司(国の行政官として派遣された官吏)による介入もありました。

初期荘園の所有者は開墾した土地を農民に貸して収穫物の20%を徴収しました。

朝廷にコネのある一部の有力な荘園領主は国家から田祖の免除を勝ち取りました。田祖を免除された田畑を不輸祖田(ふゆそでん)といいます。

人々は重い税を逃れるため、そのような荘園に土地を譲るようになりました。これを寄進地系荘園と言います。

荘園で収穫された農産物を納める蔵を「庄所」とよび、地名を付けて「○○庄」と呼びました。

周防大島町の安下庄(あげのしょう)も中世では荘園だったそうです。私は子供のころから、変わった地名だなと思っていました。

初期荘園には2種類あります。農民を雇い自分で開墾した「自墾地系荘園」(地方に多い)と、人が開墾した土地を買い取る「既墾地荘園」(畿内に多い)です。

多くの初期荘園は、特定の荘民をもたず、国家機構やその地域の有力者などに依存して労働力を確保していました。厳しい労働環境だったらしく、逃亡する農民が後を絶たず、律令制が解体する9世紀以降、初期荘園は衰退していくことになりました。

■寄進地荘園(11世紀~12世紀)

 初期荘園は私有地であっても納税が必要な、あくまでも国家機構に依存した荘園でした。

朝廷から派遣された国司たちの激しい徴税に苦しんでいた開発領主たちは、中央の権力者に土地を保証してもらうため、土地からの収益権を寄進する動きを強めていきました。

寄進地系荘園が成立すると、初期荘園もその中に自然に組み込まれて解消していきました。

荘園は8世紀から16世紀まで約800年続きました。

最終的には、太閤検地によって荘園は解体しました。

■公領(国衙領)

 公領とは天皇の土地のことです。国衙領は、平安時代中期頃以降の公領を、荘園に対して呼ぶ歴史学用語です。

公領は別名国衙領(こくがりょう)とも言われました。

防府市にも国衙という地名があります。”ごっつい”地名だなと思っていました。

私は行ったことがありませんが、調べてみると、周防国衙跡があり、土塁も一部残り、多量の器類も発見されているようです。

■公営田(くえいでん)

 律令制は、戸籍・計帳を元にして農民・人民を把握し、口分田を班給する代わりに租税を付加するという支配体制ですが、8世紀後期ごろから租税負担を回避するために逃亡・浮浪する農民が増加し、律令制は崩壊してゆきました。

公営田は大宰府の運営費用を賄うために作られた直営田です。

公営田の耕作にかり出された農民たちにはきちんと報酬が支払われ、税も免除されたようです。

 

2018/7/10 西日本豪雨

平成30年7月5日からの豪雨災害により、被災された皆様には心よりお見舞い申し上げます。

降り続く豪雨による土砂崩れの被害が続発しました。

周南市でもおひとり亡くなられたようです。

被害状況のわからぬ私は、雨が上がった直後、下松市に住む本籍が光市のAさんに、「戸籍謄本を1通取られてください」と電話で伝えました。

後日Aさんから「下松から光市に続く海岸線はひどい渋滞で途中から帰ってきました」との電話がありました。

知らなかったこととはいえ、無神経なことをしてしまいました。すみませんAさん。

あの海岸線の道路が土砂で一時通れなくなっていたとは信じられない出来事です。子供のころから何度も行き来していた道路が通れなくなったのは、私の記憶にはありません。

「そしたら、線路(山陽本線)も埋まっているのですか」とAさんに尋ねました。

あんた何を言(ゆ)うちょるのというような声で、「埋まっています。線路は道路よりも山手ですから」

日が経つにつれて、近場の被害状況が耳に入ります。

熊毛地区の岩徳線の被害、下松市笠戸島の県道通行止めによる住民の孤立、光市島田川の氾濫等。

災害が起きるたびに思うのですが、当初の情報量の少なさから、被害者の人数や被害カ所は日増しに増えていきます。耳をふさぎ、目を閉じたいのですが、もう片方の耳で目で、現実を受け止めなくてはなりません。われわれが生きて直面している出来事なんですよね。

建設会社を経営している友人がいます。

災害直後から、下松・光間の線路復旧、岩徳線の復旧について立て続けに役所から相談があったそうです。

友人の人柄からして、何とかしたいと思う気持ちが人一倍沸き上がったものですが、いかんせん従業員の方々には日々に組み込まれた仕事があります。

「全部は受けられん。同じ地域に住む者として、断るのも辛い」

現在、友人とその会社の従業員の方々は、時間を割いて、復旧作業を日々続けています。

「できることはやる。できんことまではできん」

私は、なにも答えられず、その日は酔いつぶれてしまいました。

                       不動産のレック

 

2018.7.2 壬生義士伝

 盛岡の南部藩を脱藩した主人公・吉村貫一郎が故郷に残した家族を養うために命を貼って新選組で生きていく漢(男)の物語です。

吉村貫一郎は浅田次郎が作り出した架空の人物だそうですが、そのモデルになった人々は数多くいたと思われ、明治維新の時代に力強く生きていたのは、長州の人々だけではなく、日本全国各地に歴史に残る残らないにかかわりなく、大勢の人々がその時代を懸命に力強く生きていたのです。

あたりまえのことでした。しかし、私は「壬生義史伝」を読み、映画も観た時にそのことを深く教えられました。鈍い人間です。

「勝者が歴史を作り、敗者が小説を作る」とか言われますが、まさしく勝者の歴史に包まれて育った私は、吉田松陰をはじめ長州や薩摩の人々はこの国をよりよくするためのエネルギーにあふれ、幕府を始め他藩の人々は、現状を良しとして時代に取り残され犠牲になったのだと思っていました。

「おもさげながんす」

 

「壬生義士伝]は、新撰組隊士の吉村貫一郎の義理と愛を貫く姿を描いた作品で、2000年に第13回柴田錬三郎賞を受賞しています。

浅田次郎の長女が岩手の医科大学に入学したことから、何度か岩手を訪れ、南部藩士を題材にした作品を作ろうとしたのがきっかけだそうです。

 

ある日、一人の剣士・吉村貫一郎が新選組に入隊します。

吉村は南部藩の藩校で剣を教えるほどの腕前でしたが、剣術の腕前、学問があっても鼻にかけることがない。…人間の鏡のような人物です。

大義のためには己の命をも顧みない隊士たちの中にあって、恥ずかしげもなく命に固執し、何かにつけてはお金に執着する貫一郎の姿は異彩を放ちます。

吉村が守銭奴なのは、盛岡の貧しい妻子へ仕送りをするためだったのです。

大政奉還があり、新撰組は逆賊として薩摩、長州軍で構成される官軍に追われる身となります。

鳥羽伏見の戦いでは、幕府軍の会津藩兵や新選組隊士の前方に騎兵隊の軍楽隊が近づいてきます。

「ピーヒャラドンドンドン、ピーヒャラドンドンドン……」

薩長軍は錦旗を掲げています。これはたまりません。いつの間にか賊軍になっているではありませんか。幕府軍は戦意喪失です。

撃ち倒された幕府軍の骸のただなかで、吉村が叫びます。

「新撰組隊士吉村貫一郎、徳川の殿軍ばお努め申っす。一天万乗の天皇様に弓引くつもりはござらねども、拙者は義のために戦ばせねばなり申さん。お相手いたす」

撃たれても立ち上がり、なおも戦おうとするその姿に、新撰組の仲間たちは「逃げろ、お前は生き延びるんだ」と激励し、彼を戦場から逃がします。

 

「わしが立ち向かったのは、人の踏むべき道を不実となす、大いなる不実に対してでござんした。

わしらを賊と決めたすべての方々に物申す。勤王も佐幕も、士道も忠君も、そんたなつまらぬことはどうでもよい。

石をば割って咲かんとする花を、なにゆえ仇となさるのか。北風に向かって咲かんとする花を、なにゆえ不実と申さるるのか。

それともおのれらは、貧と賤とを悪と呼ばわるか。富と貴とを、善なりと唱えなさるのか。

ならばわしは、矜り高き貧と賤とのために戦い申す。断じて、一歩も引き申さぬ。」

 

吉村は大阪の盛岡南部藩屋敷に満身創痍で紛れ込みます。蔵屋敷差配役の旧友大野次郎座衛門は苦悩を包み隠して、貫一郎に切腹を命じます。

 

次郎衛は貫一郎の亡骸を抱き起し、

「食(け)え、寛一。しづも嘉一郎も、お前(め)のおかげで腹は一杯(いっぺえ)じゃ。んだば、お前が食え。南部の米じゃ。花巻の米じゃ。北上川の水で育った、盛岡の米じゃ。後生じゃ寛一、今一度この目ば開けて、南部の百姓が丹精込めて作った米ば、腹一杯食って呉(け)ろ。のう、寛一、後生じゃ」

 

大野次郎右衛門は、貫一郎と死別した後、盛岡へ帰ると、「薩長につ。くか、幕府側につくか」の意見を求められます。

尾家大事の一念で、ことを穏やかに運んでくれるに違いないはずの次郎衛が、

「薩長は断じて官軍にあらず、会津討つべからず」

大勢は決している最中の絶望的な決断でした。

大野次郎右衛門は南部藩兵を率いて薩長側についた秋田藩へ進撃し、連戦連勝を重ねますが、新政府軍の参戦によって敗北しました。捕らわれた次郎衛門は斬首されました。

 

嘉一郎が脱藩した時、次郎衛門が生前、息子・千秋に語り掛けた言葉があります。

「千秋、吉村先生は義のために国ば捨てたのじゃ。むつかしい理屈は言わんでもええ。もし万が一、藩校にて嘉一郎が責めを受くるようなことがあれば、お前(め)は身をもって嘉一郎ば守れ。嘉一郎が腹ば切るというのなら、お前もともに腹ば切れ、決して友の難儀をば、指くわえてみておるではねぞ。父も寛一のためだれば、いつでも命ば捨て申(も)す。お前も嘉一郎のために命ばかけ申せ。これは組頭と組付足軽のことではねぞ。竹馬の友だれば当然のことじゃ」

 

「あの少年の友であるという矜(ほこ)りだけで、私は半世紀の艱難に耐えてくることができたのです」(千秋)

 

貫一郎の子、嘉一郎は、函館の地での今際の際に母へ語りかけます。

「母上様。

嘉一郎は一足お先にあの世へと参(めえ)りあんす、逆縁の不幸をば、お許しえってくだんせ。」

「母上様。

最後の最後にひとっつだけ

嘉一郎は父上と母上の子でござんす

そのことだけで、天下一の果報者にてござんした

十七年の生涯(しょうげえ)は牛馬のごとく短けえが

来世も父上と母上の子に生まれるのだれば

わしは十七年の生涯でで良がんす

いんや七たび十七で死にてえと思いあんす

母上様。どうか来世にても、父上と夫婦(めおと)になり

嘉一郎ば生んでくだんせ

お願えでござんす母上様

んだば」

 

ひたすら単純律儀で、愚直なまでに勤王を信じてきた盛岡の人々。それらの思いが裏切られても、愚直なまでに戦い、武士の道に準じた盛岡の人々のことを知り、頭を打たれ、目を開かされた思いがあります。

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西郷どんと愛加那

2018.6.23 西郷どんと住まい

NHKの大河ドラマを毎年観ています。

山口県で生まれた私は、子供のころ、明治維新で活躍したのは吉田松陰をはじめ高杉晋作、桂小五郎など長州出身の人々だけだと思っていました。

司馬遼太郎の「竜馬がゆく」を読んで、坂本龍馬が大好きになり、坂本龍馬の本を読み漁りました。

10年前くらい前に、浅田次郎の「壬生義士伝」を読んだ時には、頭を打たれたような衝撃を覚えたものです。

壬生義史伝については後日、私が受けた感動を書いてみたいと思います。

 

西郷どん(西郷隆盛)を嫌いだという人は少ないと思います。

近所でばったり出会って、「こんにちわ」と声をかけると、吸い込まれそうな大きな目を細めてにっこり笑い「こんにちわ、よか天気でごわすな」と、温みのある言葉が返ってきそうな大きな人物のイメージがあります。大人物の典型として語り継がれてきたのでしょうね。

 

西郷どんと不動産のかかわりについて書いてみようと思います。

 

西郷どんが20歳のころです。

11人の大家族で、暮らしはひっ迫しています。祖父の龍衛門は病で寝込みます。

西郷どんはたまりかねて、父の吉兵衛に、

「いっそ家を売って金を作りもんそ」と訴えますが、

「バカたいが! 武士が家を売るち、そげん恥ずかしかこっができっか!」と一蹴されます。

しかし、家計はいかんともしがたく、赤山靱負の紹介で廻船業商の板垣から計200両を借りることになります。

西郷家はこのあと、明治維新後まで借金の返済に苦しんだそうです。

 

当時の薩摩藩も、おそらく日本国中の各藩と同じように、豊かな暮らしではなかったと思われますが、家を売るとして買い手がいるのか、不動産の金銭価値がいくらぐらいであったのか、不動産会社のレックとしては気になるところです。

後日、不動産の歴史を書いてみたいと思います。

 

2018/6/6 ブログ開始

ブログを始めてみます。

大したことは書けないでしょう。その時の私の力量です。私の思いに伝わるものがあれば、メールをください。

「君たちはどう生きるか」(吉野源三郎)を読んで、私も何かを書いてみたい、伝えたいと思い立ちました。思ったことだけを書いてみます。今は少し熱くなっているので、ブログが続くものかどうかはわかりませんし、間隔が開くかもわかりませんが、一人でも多くの人に寄り道をしてもらえると幸せです。

「君たちはどう生きるか」

感動しました。「世の中を回している中心なんてもしかしたらないのかもしれない。誰かのためにっていう小さな意思がひとつひとつつながって、僕たちの生きる世界は動いている」

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