2018/8/10 不動産の歴史

江戸時代、裕福な商人や大地主が「長屋」を建て、管理と貸し出しを行うようになったのが「賃貸」の始まりです。

不動産の管理を代行して請け負ったのが「差配人」「大家」と言われる職業の人々でした。現代は「大家」というと建物の所有者とほぼ同義ですが、少し違ってたようです。

不動産という言葉が初めて使われたのは、明治の時代だそうです。

 

 

2018/7/10 西日本豪雨

平成30年7月5日からの豪雨災害により、被災された皆様には心よりお見舞い申し上げます。

降り続く豪雨による土砂崩れの被害が続発しました。

周南市でもおひとり亡くなられたようです。

被害状況のわからぬ私は、雨が上がった直後、下松市に住む本籍が光市のAさんに、「戸籍謄本を1通取られてください」と電話で伝えました。

後日Aさんから「下松から光市に続く海岸線はひどい渋滞で途中から帰ってきました」との電話がありました。

知らなかったこととはいえ、無神経なことをしてしまいました。すみませんAさん。

あの海岸線の道路が土砂で一時通れなくなっていたとは信じられない出来事です。子供のころから何度も行き来していた道路が通れなくなったのは、私の記憶にはありません。

「そしたら、線路(山陽本線)も埋まっているのですか」とAさんに尋ねました。

あんた何を言(ゆ)うちょるのというような声で、「埋まっています。線路は道路よりも山手ですから」

日が経つにつれて、近場の被害状況が耳に入ります。

熊毛地区の岩徳線の被害、下松市笠戸島の県道通行止めによる住民の孤立、光市島田川の氾濫等。

災害が起きるたびに思うのですが、当初の情報量の少なさから、被害者の人数や被害カ所は日増しに増えていきます。耳をふさぎ、目を閉じたいのですが、もう片方の耳で目で、現実を受け止めなくてはなりません。われわれが生きて直面している出来事なんですよね。

建設会社を経営している友人がいます。

災害直後から、下松・光間の線路復旧、岩徳線の復旧について立て続けに役所から相談があったそうです。

友人の人柄からして、何とかしたいと思う気持ちが人一倍沸き上がったものですが、いかんせん従業員の方々には日々に組み込まれた仕事があります。

「全部は受けられん。同じ地域に住む者として、断るのも辛い」

現在、友人とその会社の従業員の方々は、時間を割いて、復旧作業を日々続けています。

「できることはやる。できんことまではできん」

私は、なにも答えられず、その日は酔いつぶれてしまいました。

                       不動産のレック

 

2018.7.2 壬生義士伝

 盛岡の南部藩を脱藩した主人公・吉村貫一郎が故郷に残した家族を養うために命を貼って新選組で生きていく漢(男)の物語です。

吉村貫一郎は浅田次郎が作り出した架空の人物だそうですが、そのモデルになった人々は数多くいたと思われ、明治維新の時代に力強く生きていたのは、長州の人々だけではなく、日本全国各地に歴史に残る残らないにかかわりなく、大勢の人々がその時代を懸命に力強く生きていたのです。

あたりまえのことでした。しかし、私は「壬生義史伝」を読み、映画も観た時にそのことを深く教えられました。鈍い人間です。

「勝者が歴史を作り、敗者が小説を作る」とか言われますが、まさしく勝者の歴史に包まれて育った私は、吉田松陰をはじめ長州や薩摩の人々はこの国をよりよくするためのエネルギーにあふれ、幕府を始め他藩の人々は、現状を良しとして時代に取り残され犠牲になったのだと思っていました。

「おもさげながんす」

 

「壬生義士伝]は、新撰組隊士の吉村貫一郎の義理と愛を貫く姿を描いた作品で、2000年に第13回柴田錬三郎賞を受賞しています。

浅田次郎の長女が岩手の医科大学に入学したことから、何度か岩手を訪れ、南部藩士を題材にした作品を作ろうとしたのがきっかけだそうです。

 

ある日、一人の剣士・吉村貫一郎が新選組に入隊します。

吉村は南部藩の藩校で剣を教えるほどの腕前でしたが、剣術の腕前、学問があっても鼻にかけることがない。…人間の鏡のような人物です。

大義のためには己の命をも顧みない隊士たちの中にあって、恥ずかしげもなく命に固執し、何かにつけてはお金に執着する貫一郎の姿は異彩を放ちます。

吉村が守銭奴なのは、盛岡の貧しい妻子へ仕送りをするためだったのです。

大政奉還があり、新撰組は逆賊として薩摩、長州軍で構成される官軍に追われる身となります。

鳥羽伏見の戦いでは、幕府軍の会津藩兵や新選組隊士の前方に騎兵隊の軍楽隊が近づいてきます。

「ピーヒャラドンドンドン、ピーヒャラドンドンドン……」

薩長軍は錦旗を掲げています。これはたまりません。いつの間にか賊軍になっているではありませんか。幕府軍は戦意喪失です。

撃ち倒された幕府軍の骸のただなかで、吉村が叫びます。

「新撰組隊士吉村貫一郎、徳川の殿軍ばお努め申っす。一天万乗の天皇様に弓引くつもりはござらねども、拙者は義のために戦ばせねばなり申さん。お相手いたす」

撃たれても立ち上がり、なおも戦おうとするその姿に、新撰組の仲間たちは「逃げろ、お前は生き延びるんだ」と激励し、彼を戦場から逃がします。

 

「わしが立ち向かったのは、人の踏むべき道を不実となす、大いなる不実に対してでござんした。

わしらを賊と決めたすべての方々に物申す。勤王も佐幕も、士道も忠君も、そんたなつまらぬことはどうでもよい。

石をば割って咲かんとする花を、なにゆえ仇となさるのか。北風に向かって咲かんとする花を、なにゆえ不実と申さるるのか。

それともおのれらは、貧と賤とを悪と呼ばわるか。富と貴とを、善なりと唱えなさるのか。

ならばわしは、矜り高き貧と賤とのために戦い申す。断じて、一歩も引き申さぬ。」

 

吉村は大阪の盛岡南部藩屋敷に満身創痍で紛れ込みます。蔵屋敷差配役の旧友大野次郎座衛門は苦悩を包み隠して、貫一郎に切腹を命じます。

 

次郎衛は貫一郎の亡骸を抱き起し、

「食(け)え、寛一。しづも嘉一郎も、お前(め)のおかげで腹は一杯(いっぺえ)じゃ。んだば、お前が食え。南部の米じゃ。花巻の米じゃ。北上川の水で育った、盛岡の米じゃ。後生じゃ寛一、今一度この目ば開けて、南部の百姓が丹精込めて作った米ば、腹一杯食って呉(け)ろ。のう、寛一、後生じゃ」

 

大野次郎右衛門は、貫一郎と死別した後、盛岡へ帰ると、「薩長につ。くか、幕府側につくか」の意見を求められます。

尾家大事の一念で、ことを穏やかに運んでくれるに違いないはずの次郎衛が、

「薩長は断じて官軍にあらず、会津討つべからず」

大勢は決している最中の絶望的な決断でした。

大野次郎右衛門は南部藩兵を率いて薩長側についた秋田藩へ進撃し、連戦連勝を重ねますが、新政府軍の参戦によって敗北しました。捕らわれた次郎衛門は斬首されました。

 

嘉一郎が脱藩した時、次郎衛門が生前、息子・千秋に語り掛けた言葉があります。

「千秋、吉村先生は義のために国ば捨てたのじゃ。むつかしい理屈は言わんでもええ。もし万が一、藩校にて嘉一郎が責めを受くるようなことがあれば、お前(め)は身をもって嘉一郎ば守れ。嘉一郎が腹ば切るというのなら、お前もともに腹ば切れ、決して友の難儀をば、指くわえてみておるではねぞ。父も寛一のためだれば、いつでも命ば捨て申(も)す。お前も嘉一郎のために命ばかけ申せ。これは組頭と組付足軽のことではねぞ。竹馬の友だれば当然のことじゃ」

 

「あの少年の友であるという矜(ほこ)りだけで、私は半世紀の艱難に耐えてくることができたのです」(千秋)

 

貫一郎の子、嘉一郎は、函館の地での今際の際に母へ語りかけます。

「母上様。

嘉一郎は一足お先にあの世へと参(めえ)りあんす、逆縁の不幸をば、お許しえってくだんせ。」

「母上様。

最後の最後にひとっつだけ

嘉一郎は父上と母上の子でござんす

そのことだけで、天下一の果報者にてござんした

十七年の生涯(しょうげえ)は牛馬のごとく短けえが

来世も父上と母上の子に生まれるのだれば

わしは十七年の生涯でで良がんす

いんや七たび十七で死にてえと思いあんす

母上様。どうか来世にても、父上と夫婦(めおと)になり

嘉一郎ば生んでくだんせ

お願えでござんす母上様

んだば」

 

ひたすら単純律儀で、愚直なまでに勤王を信じてきた盛岡の人々。それらの思いが裏切られても、愚直なまでに戦い、武士の道に準じた盛岡の人々のことを知り、頭を打たれ、目を開かされた思いがあります。

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西郷どんと愛加那

2018.6.23 西郷どんと住まい

NHKの大河ドラマを毎年観ています。

山口県で生まれた私は、子供のころ、明治維新で活躍したのは吉田松陰をはじめ高杉晋作、桂小五郎など長州出身の人々だけだと思っていました。

司馬遼太郎の「竜馬がゆく」を読んで、坂本龍馬が大好きになり、坂本龍馬の本を読み漁りました。

10年前くらい前に、浅田次郎の「壬生義士伝」を読んだ時には、頭を打たれたような衝撃を覚えたものです。

壬生義史伝については後日、私が受けた感動を書いてみたいと思います。

 

西郷どん(西郷隆盛)を嫌いだという人は少ないと思います。

近所でばったり出会って、「こんにちわ」と声をかけると、吸い込まれそうな大きな目を細めてにっこり笑い「こんにちわ、よか天気でごわすな」と、温みのある言葉が返ってきそうな大きな人物のイメージがあります。大人物の典型として語り継がれてきたのでしょうね。

 

西郷どんと不動産のかかわりについて書いてみようと思います。

 

西郷どんが20歳のころです。

11人の大家族で、暮らしはひっ迫しています。祖父の龍衛門は病で寝込みます。

西郷どんはたまりかねて、父の吉兵衛に、

「いっそ家を売って金を作りもんそ」と訴えますが、

「バカたいが! 武士が家を売るち、そげん恥ずかしかこっができっか!」と一蹴されます。

しかし、家計はいかんともしがたく、赤山靱負の紹介で廻船業商の板垣から計200両を借りることになります。

西郷家はこのあと、明治維新後まで借金の返済に苦しんだそうです。

 

当時の薩摩藩も、おそらく日本国中の各藩と同じように、豊かな暮らしではなかったと思われますが、家を売るとして買い手がいるのか、不動産の金銭価値がいくらぐらいであったのか、不動産会社のレックとしては気になるところです。

後日、不動産の歴史を書いてみたいと思います。

 

2018/6/6 ブログ開始

ブログを始めてみます。

大したことは書けないでしょう。その時の私の力量です。私の思いに伝わるものがあれば、メールをください。

「君たちはどう生きるか」(吉野源三郎)を読んで、私も何かを書いてみたい、伝えたいと思い立ちました。思ったことだけを書いてみます。今は少し熱くなっているので、ブログが続くものかどうかはわかりませんし、間隔が開くかもわかりませんが、一人でも多くの人に寄り道をしてもらえると幸せです。

「君たちはどう生きるか」

感動しました。「世の中を回している中心なんてもしかしたらないのかもしれない。誰かのためにっていう小さな意思がひとつひとつつながって、僕たちの生きる世界は動いている」

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