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「のんびりマイペース、今日ものんびり進みます」

2025/06/08 かたつむり

かたつむりのうた

しずくの道を ゆっくりと

小さな殻を 背中に乗せて

かたつむりは 今日もいく

葉っぱの国の 旅びとよ

雨のしらべを 傘にして

風のささやき 耳に聴く

あせらず あわてず まっすぐに

緑のなかを ひとすじに

だれも気づかぬ 小さな歩み

それでも世界は 広がってゆく

ゆっくりだから 見えるもの

そっと心に ひびくもの

夕暮れの空に 虹が出た

かたつむりは 見あげてた

「また あしたも あるけるかな」

やさしい声で そうつぶやきながら

 

カタツムリのうた

しずくの森を すべりゆく

しろいからだに ひかりをのせて

葉のうえの道は みずいろの絵筆

そっと そっと 時をぬりかえる

角をのばして  風をきき

雨のことばを 耳でうけ

誰にも追われぬ この歩み

けれど確かに いまをゆく

殻はわたしの ちいさな家

思いでつめて 丸くかかえ

どんな嵐も くぐりぬけ

あしたの緑へ 夢をはこぶ 

 

俳句

殻しょって 雨にうたれて 道を行く

「校舎より教科書より、人の顔が一番難解です」

2025/04/12 新入生歓迎の挨拶文

皆さん、ご入学おめでとうございます。
春の光がやわらかく差し込む今日の日に、皆さんをこの場でお迎えできることを、心から嬉しく思います。

これから始まる新しい毎日は、まっさらなキャンバスに自分だけの色を描いていくようなものです。
どんな色を塗るのか、どんな形になるのか——それは、皆さん自身の手にかかっています。

この学校には、さまざまな出会い、挑戦、そして学びが待っています。
ときには不安になることもあるかもしれませんが、どうか恐れず、自分らしく一歩ずつ前に進んでください。
その一歩一歩が、やがて大きな自信となり、かけがえのない経験となって皆さんの糧になるはずです。私たち、そして先輩たちは、皆さんの成長と夢の実現を心から応援しています。

何かに迷ったとき、立ち止まりたくなったときは、どうぞ遠慮なく頼ってください。
ここには、支えてくれる仲間がたくさんいます。

2019/05/08 第28回林忠彦賞

 野村恵子さんの写真集「Otari-Pristine peaks 山霊の庭」が受賞作品に選ばれました。

写真集の表紙の写真に目が釘付けになりました。

妊婦のへそと穏やかなまなざし。

私には写真の素養が全くありませんが、この写真を何度も何度も見ていました。

撮影した写真家が女性だったからこそ取れた作品ではないのかなと勝手に思っています。

                                                                                 ➡ 林忠彦賞事務局

 

2019/04/08 当社が扱う不動産物件数はなぜ多いか

 平成5年の開業以来、不動産業を通して多くの人々と知り合いました。

地域密着型だと言ってしまえばそれまでですが、私は出会う人との会話にあまり不動産の話題には触れないように心掛けています。

そんなことをしなくても相手の方は、私が不動産業者だということを百も承知なのです。

山を買うことになった父子と境界を確認するために、父子と一緒に山に入りました。

しばらく進むと、父親の方が「ハミがおる」と声を出します。冗談と思えるような声ではないので、声の先を私は注意深く睨め回しました。

私には見つかりません。

 

その方が手にしていた長柄の鎌で、一瞬のうちに退治してくれました。

 

 

クスリ岩崎チェーン・須々万店

2019/03/08 クスリ岩崎チェーン・須々万店

 平成30年5月26日、クスリ岩崎チェーン・須々万店が開店しました。

地主が、岩崎チェーンの担当者である原田さんを大変気に入り、スムーズな取引でした。

原田さんが当事務所に来られて、いろいろな話をしましたが、裏表のないその人柄にしびれたものです。

私もこの歳(68歳)になるまでに様々な方とお会いしましたが、しびれる人はそう多くあるものではないと感じています。

ビジネスでの出会いは、特に利害が先立ってしまって、寂しくなることも数多く経験させられました。

「あたりまえだ」と、先達に叱られそうですが、”あたりまえ”と思いたくない自分もどこかにあります。

須々万の土地の借り手を探すに当たっては、原田さんと巡り合う前に、複数の出会いがありましたが、地主の「あのひと(原田さん)で進めたい」という一言が決定打になりました。

地主と私は旧来の友人ですが、「いい眼をしちょるな」と、意気に感じたものです。

私にとっても、幸せな出会いでした。

 

須々万の方々、そして須々万を通る方々、今後ともクスリ岩崎チェーン須々万店をよろしくお願いします。

 

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安田講堂

2019/02/27 東京建物


1896年に創設された日本最古の不動産会社です。

安田財閥の創始者である安田善次郎によって設立されました。

日本で最初の住宅ローンを開始したり、国内で初のSPC法に基づく不動産証券化第1号登録を取得するなど、不動産業界の中で先駆的な役割を果たしてきた会社です。

安田善次郎は富山県出身の実業家で、両替商として成功したのち、安田銀行(のちの富士銀行。現在はみずほフィナンシャルグループ)を創立しました。この安田銀行を中核として、安田生命(現在の明治安田生命)、安田火災海上(現在の損保ジャパン日本興亜)損保保険会社などが形成されていきました。

天職を金融業とし、創立期の日本銀行の理事としても活躍しています。

不動産鑑定業務も明治30年代から行っていて、昭和40年に社団法人日本不動産鑑定協会(2012年4月1日付で、公益社団法人日本不動産鑑定士協会に移行)の発起人として参画しています。

ちなみに、ジョン・レノン(元ビートルズ)の妻のオノ・ヨーコは善次郎のひ孫だそうです。

善次郎は、日比谷公会堂や東京大学講堂(安田講堂)などの社会事業への構想を持っていましたが、それらは死後に実現しました。

善次郎の父親・善悦は、「慈善は陰徳をもって本とすべし、慈善をもって名誉を求むべからず」という教えをよく口にしていたそうです。善次郎は父親の教えを忠実に守りました。

安田銀行は、長きにわたって日本最大の資金量(善次郎が亡くなった年の大正10年当時は国家予算の約8分の1)を誇り、金融界に君臨し続けました。

五十、六十鼻たれ小僧、男盛りは八、九十」は、善次郎の歌です。

 参考文献:「勤倹力行安田善次郎」芳川赳(たけし)  

ゆりかもめから豊洲市場の様子(ゆりかもめと、その下を走る道路で分断されているように立地しているのが、豊洲市場です)

2019/1/28 豊洲の土地の歴史

 

豊洲と小池都知事の話題は、一時、沸騰していましたが、移転が終わると落ち着いてきたようです。

何かの記事で読んだのですが、水産仲卸業者の「石司(いしじ)」の3代目・篠田さんがいった言葉が記憶に残ります。

「築地は自分が育ったところなので、去ることは寂しいですね。でも、豊洲へ移転が決まったのであれば、豊洲で精いっぱい商売を続けるしかない、今まで以上に頑張るしかない」

江戸っ子の心意気のようなものを感じて、グッときました。

 

豊洲は、明治期は海の底だったようですが、大正後期から昭和にかけての埋め立て事業により、豊洲の土地は生まれました。この埋め立て地が将来豊かな発展地になるようにという願いを込めて、1937年(昭和12年)に「豊洲」と名付けられたそうです。

東京石川島造船所などが立地し、東京都港湾局の専用鉄道がとおり、日本産業の急速な発展に貢献してきました。

1990年代に石川島播磨重工業(現在の株式会社IHI)が造船事業を廃止したことをきっかけにして豊洲の再開発が始まったようです。

2006年(平成18年)にはゆりかもめ豊洲駅が誕生し、新橋やお台場、江東区のベイエリアへのアクセスが格段に飛躍しました。

ちなみに、セブンイレブンの1号店は豊洲だそうです。

豊洲は時を経て、様々な要素を取り入れた注目エリアとして、日々進化しているようです。

 

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2019/1/25 住宅用家屋証明書

 

個人が居住するための住宅を取得し、一定の要件を満たした家屋については、住宅用家屋証明書を取得することによって、登記にかかる登録免許税が軽減されます。

軽減税率は以下の通りです。

登記の種類 軽減前税率

軽減後税率

(一般の住宅)

軽減後税率

(認定長期優良住宅)

(認定低酸素住宅)

 所有権保存登記  4/1000  1.5/1000  1/1000
 所有権移転登記  20/1000  3/1000

 1/1000

(戸建2/1000)

※中古は適用外

 抵当権設定登記  4/1000  1/1000

 

 

■証明の対象となる家屋

 ①所有者本人が住むための家屋であること

 ②個人が昭和59年4月1日から平成31年3月31日までの間に新築または取得した家屋であること

 ③新築後、または取得後1年以内の申請であること

 ④家屋の床面積(登記面積)が50㎡以上であること

 ⑤併用住宅の場合、居住部分が90%を超えること

 ⑥「離れ」ではないこと

 ⑦移転登記の場合は、取得原因が売買又は競落であること

 ⑧区分所有建物については、建築基準法で定める耐火建築物又は準耐火建築物に該当すること

 ⑨所有権移転登記済の家屋の場合は当該家屋の築後年数が、木造及び軽量鉄骨造では建築後20年以内、鉄筋コンクリート、鉄骨、鉄骨鉄筋コンクリート造等の耐火建築物では建築後25年以内であること

 

個人が宅地建物取引業者により一定の質の向上を図るための特定の増改築等が行われた中古住宅を取得した場合には以下の要件も満たすことが必要となります。

 

■買取再販住宅

特定の増改築等がなされた家屋(特定リフォーム家屋)で個人が宅地建物取引業者から取得した場合

〇要件

 ①宅地建物取引業者が家屋を取得してから、2年以内に個人が取得し、築後10年経過した家屋であること

 ②個人が居住の用に供される家屋で、登記床面積が50㎡以上の家屋であること

 ③併用住宅の場合、居住部分が90%を超えること

 ④区分所有建物については、建築基準法で定める耐火建築物又は準耐火建築物に該当すること

 ⑤工事の総額が300万円を超えること

 ④建物価格に占めるリフォーム工事の総額の割合が20%を超えること

 ⑦以下のいずれかに該当すること

  a)以下に該当するリフォーム工事を行い、工事費が総額100万円を超えること

  ・増築、改築、建築基準法上の大規模な修繕又は模様替え

  ・マンションの場合で、床または階段・間仕切り壁・主要構造部である壁のいずれかのものの過半について行う修繕又は模様替え

  ・家屋の一室(居室・調理室・浴室・洗面所・納戸・玄関・廊下のいずれか)の床または壁の全部についての修繕又は模様替え

  ・一定の耐震基準に適合させるための修繕又は模様替え

  ・バリアフリー改修工事

  ・省エネ改修工事

  ・給水管、排水管、雨水の浸入を防止する部分にかかる工事

 

■交付日数

 即日交付

                                                

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実った稲穂

2019/1/12 太閤検地

 

「検地」の最も古い事例といわれるのは、北条早雲が行った「指出検地」です。

天下統一を成し遂げた秀吉は、様々な政策を実行します。その中でも有名なものに「刀狩」と「太閤検地」があります。

豊臣秀吉が関白になったことにより、すべての土地が国家の所有となりました。

太閤検地(太閤とは、前に関白であった人の尊称)とは、1582年に始まった豊臣秀吉が行った全国規模の土地調査です。

太閤検地は、全国統一の同一基準のもとに行われた検地です。

太閤検地の目的は、全国各地の米生産量を把握して効率よく年貢を徴収することです。「この土地はどれだけ収穫できるか」を基準にするというものでした。

複雑な土地所有関係を整理し土地制度を一新した太閤検地により荘園制度は完全に崩壊しました。

他にも検知を行っていた戦国大名もいたようですが、太閤検地では全国的に、しかも検知奉行といって秀吉の部下が直接現地赴き、徹底的な厳しさで検地し、「検地帳」を作成しました。

土地は上・中・下・下々の4ランクに分けられました。

「検地帳」に土地所有者に百姓が記載されたことから、刀狩と同様に身分の固定化を図る「身分統制令」のひとつとされ、「兵農分離政策」の一環と言われています。

兵農分離とは、武士と農民を完全に分ける政策のことです。

それまでは、農民の武装は当たり前でした。

秀吉は太閤検地と刀狩を組み合わせることによって、農民が一揆をおこしにくくするようにしたと考えられています。

太閤検地によって、代々土地を継承している国人領主・土豪たちと地元民との切り離しを企画し、土地の国有化に近い形を確立させて、中世の大名・領主・地侍の土地の領有権を否定し、すべての大名の石高が正式に定まりました。

また、農民と土地をしっかり結びつけることで農民が勝手に土地を離れないようにする狙いもありました。年貢は土地の所有者である農民が納めることとされました。

これを可能にしたものは、関白に任官し、天下の任官となったことだといえるでしょう。

大名は、豊臣秀吉から国替えを命じられれば、新任地へ家臣団ととともに移ってゆきます。徳川家康旧領地「三河、遠江、駿河」から関東への転封や上杉景勝の越後から会津への転封などです。

転封にあたっては、農民は現地に残り、農耕をしないものと百姓は明確に区別されました。

織田信長の「検地」が、「差出」といわれる書類審査が大半でした。

太閤検地では、まず土地を検査するときの単位、物差しや升などの度量衡を統一し、田畑の広さや収穫高を調べ、石高という単位を使用しました。

京枡を使って基準を統一することは、米の生産高を割り出すことを可能にしました。

秀吉は検地の成果を踏まえて、全国の大名に対し、その領国の検地帳と国絵図(くにえず)の提出を命じました。これにより、すべての大名の石高が正式に決まり、石高に合わせた軍役を決定しました。

 

■刀狩

 刀狩令とは、1588年に豊臣秀吉が行った農民から刀・槍・鉄砲などの武器を没収する法令のことです。京都の方広寺に日本一大きな仏像を建造する材料に使う(武器を提出した者のその後の人生は幸福になれる)、という名目で没収しました。

それまでは、農民の武装(地侍と呼ばれていました)は当たり前で、荘園制下の農民は刀などの武器を持つものが多く(当時の男子は、15歳になると刀指という儀式があり農民も15歳になると脇差を持っていました)、土一揆や一向一揆などではこれらの武器が威力を発揮しました。

農民が武器を持っていることに危機感を持っていた秀吉は、農民たちによる検地などへの反抗を防ぐために刀狩を行なったようです。

「太閤検地」と「刀狩」は、農民を「年貢を納める身分」として固定しました。

刀狩令は、現在も形を変えて残っています。明治時代の廃刀令、現在の銃刀法違反へと基本の考えは継承されています。その面で、アメリカはかなり遅れていると思い、私は物騒でたまりません。方広寺の大仏に手を合わせています。

 

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江戸時代に幕府の直轄領「天領」として栄えた倉敷

2019/1/7 江戸時代の不動産

 

 1603年徳川家康が幕藩体制を築き乱世が終焉してからは商業が発展し、不動産の歴史は大きく変化します。

江戸をはじめとする都市部では人口が急増しました。

不動産賃貸業は、江戸時代の長屋から始まったといわれています。

豪商が長屋を建て、大家を雇い、庶民に貸し出していました。

当時の一般庶民にとっては、住まいは借りるものであり、財産ではありませんでした。

長屋は、一棟に多くの人を住まわせることで、経済的な負担が減り、緊急時の連絡も円滑になるという利点がありました。

長屋にほ風呂はなく(銭湯が一般的)、井戸とトイレは共同。音は筒抜けでした。

長屋には表長屋と裏長屋があります。

表長屋は表通りに面していることからそのように呼ばれ、店舗付きでした。

裏長屋の家賃は安く、現代の価値に換算して1万円もしなかったといわれています。東京で1万円ですよ…。

土地は幕府の所有であったため、売買は禁止されていましたが、町人の土地は証文により取引が行われていたようです。

不動産の管理だけを仕事として請け負っていた人達もいて、彼らは「差配人」(大家)と呼ばれていました。生業として賃貸や仲介が行われたのはこの頃からといわれています。

江戸時代のおける大家とは、必ずしも家主ではなく、家賃を集めたり、管理を任され、同時に店子(入居者)の身元保証人になって、仕事の世話などもしていたようです。

私は、日本人のこういうところがたまらなく好きです。

 

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舞鶴赤レンガ倉庫

2019/1/5 明治時代の不動産

 

明治になって土地の私有化が認められ、誰でも自分の好きな場所に住めるようになりました。

明治6年、地租改正条例が公布し、地租改正事業(土地と租税の改革)が着手されました。

土地に対する税は、物納が金納になり、納税者は耕作者から土地所有者へと変わりました。

村ごとに土地台帳を作成し、地主は地価の3%(これは江戸時代の年貢負担とほぼ同じです)を金銭で納めることになりました。

その前年(明治5年)には田畑永代売買禁止令が廃止され、国民の土地所有権が認められています。明治6年には、土地を担保とした貸借も合法化されています。

土地の所有者には「地券」という権利証(その土地の値段も記載されています)を発行しました。土地の流通および土地金融はすべて地券により行われることになりました。

それまでの農民は、隠し持っている田畑があり、そこからとれる収穫物についてはすべて自分たちのものにすることができました。しかし、地券のない土地は政府に保証してもらえないわけですから、隠し持っていた土地も国に届けざるを得なくなりました。

米で納めていた年貢を、金銭で納めるようになり、収穫高の変化する米よりも金銭の方が安定した財源になると国は考えました。

また、地租改正では、農民は自分で作る農作物を決められるようになりました。従来は幕府や藩が決めた農作物しか作れないのが原則でしたが、地租改正以降はその縛りが無くなりました。

江戸時代の年貢は藩ごとで様々でしたが、地租改正で全国一律になりました。

江戸時代の場合、その年の収穫高に応じて年貢率が決められていて、年貢率を決める地域の役人は大きな権限を持っていました。そのため、贈収賄などの不正行為が横行していたようです。

地租改正は約7年にわたる大事業でした。

地租改正は、明治政府にとっては都合のよいものでしたが、国民にとっては、かならずしもありがたいものではなかったようです。

1874年~1877年(明治7年~10年)、伊勢暴動、真壁暴動など、各地で地租改正に反対する農民一揆がおきています。

地租改正一揆を抑え込むために明治政府は税率を2.5%に下げる措置を行っています。

ちなみに、木戸孝允は地租改正の推進派でしたが、3%の高税率は農民を幕藩体制よりもひどい状況に追い込むものだとして最後まで反対していたそうです。

大名や町奉行は、徳川家から拝領していた屋敷や奉行所などの土地をそのまま譲り受け、その土地に借家を建てることも多かったようです。

明治初期の借家は、江戸時代と同様にほとんどが長屋でしたが、次第に2階建て長屋も出現し、トイレも各戸に設置されるようになりました。

明治29年、民法が施行されると、「不動産会社」や「仲介業者」が誕生しました。

日本初となる総合不動産会社である東京建物が設立され、日本の不動産業界は大きく動き始めました。

西洋の建築技術も導入し始め、特に家族や裕福な家庭は、西洋風の家屋を好み、洋風家屋の多くには、絨毯を敷いた応接間が取り入れられています。

日本の近代的な都市開発は、明治初期の「丸の内」から始まりました。

明治後期、ニュータウン開発も始まりました。

明治43年、上野に木造4階建てのマンションが建てられました。日本初の集合住宅です。

 

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フラワーアレンジメント

2018/12/23 不動産業者はコンビニより多い

 

多少の統計時の違いがありますが、平成29年のコンビの店舗数は約58,000店舗、不動産業者数は約123,000業者となっています。

この数字からして、不動産業者がいかに多いかがわかります。

ちなみに、

歯科医院:約69,000(個人医院:約54,000)

薬局:約59,000(増加傾向)

酒屋:約62,000

クリーニング店:約114,000(約7割が取次店)

 1997年のピーク時には約164,000店舗ありました。

美容院:約243,000(増加傾向)

喫茶店:約71,000(スターバックス約1,300)

寺:約77,000

神社:約80,000

スナック(我々はスタンドという):約80,000

整骨院、マッサージ店等:約150,000

 

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2018/12/10 登記情報提供サービス

 

 一般財団法人民亊法務協会が運営しているインターネットで登記情報を調べることができるサービスです。

ただし、このサービスにより提供された登記情報は、認証文および登記官の印がないので公的な証明書としての効力はありません。あくまでも調査など確認等に利用するものです。

ただし、「照会番号」が記載された登記情報であれば、照会番号をもとに内容の確認をすることができますので、確認書類として利用できます。

照会番号は、10桁の番号です。

照会番号は1回しか使えませんので、登記事項証明書のように原本を還付してもらって何度も使うということはできません。複数の行政機関等に提出する場合は、必要数の「照会番号」を請求してください。

照会番号の有効期限は発行年月日から100日間です。有効期限の末日が休日、祝日であっても末日をもって終了となります。照会番号の使用は一度限りです。

なお、市町村によっては照会番号で登記情報を確認するシステムに対応していないこともありますので、事前に確認してください。

 

■取得できる情報

 ・不動産登記情報(全部事項) 利用料金335円/1通

 ・不動産登記情報(所有者事項) 利用料金145円/1通

 ・地図情報

 ・図面情報 利用料金365円/土地1筆

 ・商業・法人登記情報

 

 ➡登記情報提供サービス概要(一般財団法人法務協会)

 

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2018/11/30 登記事項証明書のオンライン請求

 

 パソコンとインターネット接続環境とウェブブラウザがあれば事務所や自宅から登記事項証明書や図面類の請求が可能です。

請求情報の作成・送信手順は少し複雑で、使用されている用語も専門用語が多く、分かりづらいところもあります。

 

■オンライン請求のメリット

 ・取得の手数料が安く済む

 ・管轄法務局の遠近に関係なく登記申請ができる。

 

■申請者登録をする

 まずは申請者登録が必要です。 

 

■照合番号

 電子申請をする場合、登記事項証明書の代わりとなる10桁の番号です。

 

■手数料の支払い

 交付請求が完了すると、「処理状況照会」画面に「納付」ボタンが表示され、電子納付ができます。

 

■特例方式

 オンライン申請をする場合に、電子化されていない添付情報書面を、登記所に郵送または持参することを特例方式と言います。

 ➡不動産登記令附則第5条第1項の規定による申請(いわゆる特例方式)について

 

■司法書士の現況

 申請情報と併せて必要な添付情報(印鑑証明、代理権限証明情報等)は法務局へ持参することが多いため、オンライン申請の利用はしていないのが現状だと思います。

 

登記・信託オンライン申請システム登記ネット信託ネット」(法務省)

からユーザー情報を登録します。

 

 ➡オンラインによる登記事項証明書等の交付請求(不動産登記関係)について(法務省)

 ➡申請用総合ソフトによる申請・請求手順(法務省)

 ➡操作手引書のダウンロード(法務省)

                    

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2018/11/15 登記事項証明書

 

 不動産の登記事項証明書(または全部事項証明書)は、「表題部」「権利部(甲区」「権利部(乙区)」「共同担保目録」、最大で4種類の欄が記載されます。

土地の場合は、表題部に所在、地番、地目、地積、登記の日付が記されます。建物の場合は、表題部に所在、家屋番号、種類、構造、床面積、登記の日付などが記されます。

戸籍謄本や住民票とは違い、不動産の所有者以外でも取得できます。

登記所の受付は、月曜日から金曜日の8:00~17:15です。昼の時間帯も大丈夫です。

登記事項を紙に記録して、地域ごとにバインダーでとじたものを「登記簿」と呼び、必要なページをコピーしたものを「登記簿謄本」と呼んでいました。

登記簿の紙は丈夫で、何千人、何万人が閲覧していたことでしょうが、擦り切れて文字が読めなくなっている登記用紙を見たことはなく、人が同じように紙をめくっていたのでしょう、よく閲覧される登記簿ほど紙がめくる人の指に慣らされて、波打っていました。

2008年から登記事項は磁気ディスクに記録されていて、その内容を用紙に印刷して証明するものが「登記事項証明書」です。記載される内容は登記簿と同じです。

最近は見ることもなくなりましたが、閉鎖登記簿の閲覧を申請すると、懐かしい登記簿が出されるはずです。

オンライン化により現在では、登記事項証明書は全国のどの法務局においても受け取れるようになりました。

登記簿は縦書きですが、登記事項証明書は横書きです。

○地目

 土地の用途によって23種類に限定されていて、これ以外の地目が認められることはありません。

地目の種類

農耕地で用水を利用して耕作する土地
農耕地で用水を利用しないで耕作する土地
宅地 建物の敷地およびその維持もしくは効用を果たすために必要な土地
学校用地 校舎、付属施設の敷地および運動場
鉄道用地 鉄道の駅舎、付属施設及び路線の敷地
塩田 海水を引き入れて塩を採取する土地をいう
鉱泉地 鉱泉(温泉を含む)の湧出口及びその維持に必要な土地
池沼 灌漑用水でない水の貯留地
山林 耕作の方法によらないで竹木の生育する土地
牧場 獣畜を放牧する土地をいう。牧畜のために使用する建物の敷地、牧草栽培地および林地などで、牧場地域内にある者はすべて牧場とする
原野 耕作の方法によらないで雑草、灌木類の生育する土地をいう
墓地 人の遺骸、遺骨を埋める土地をいう
境内地 境内に属する土地であって、宗教法人法第3条第2号及び第3号の掲げる土地
運河用地 運河法第12条第1項第1号又は第2号の掲げる土地
水道用地 専ら給水の目的で敷設する水道の水源地、貯水池、濾水(ろすい)場又は水道線路に要する土地
用悪水路 灌漑用または悪水排せつ用の水路
ため池 耕地灌漑用の用水貯留地
防水のために築造した堤防をいう
井溝(せいこう) 田畝(でんぽ)または村落の間にある通水路をいう
保安林 森林法に基づき農林水産大臣が保安林として指定した土地
公衆用道路 一般交通の用に供する道路(道路法による道路であるかどうかを問わない)
公園 公衆の遊楽のために供する土地をいう
雑種地 上記のいずれにも該当しない土地

地目に変更があった場合には、変更があった日から1か月以内に土地地目変更登記を行わなければなりません。

 

○地積

 土地の面積が表示されます。

 

■表題部

 

■登記事項証明書の種類

・全部事項証明書:登記記録に記録されている事項の全部の証明書

・現在事項証明書:現在効力がある登記事項のみ(抹消事項を含みません)の証明書

・一部事項証明書(何区何番事項証明書):権利部の相当区に記録されている事項のうち請求にかかる部分の証明書

・登記事項閉鎖全部事項証明書:コンピュータ化の後に閉鎖された登記記録の証明書

・登記事項要約書:対象不動産に関する権利関係のうち登記名義人の氏名など主要事項のみが記載されたもの

 

■登記事項証明書の取得方法

 取得申請にあたっては、印鑑等は特に必要がなく、誰でも取得することができます。

・法務局の窓口での取得

 法務局の窓口へ行き、登記事項証明書交付申請書に必要事項を記入して提出します。交付申請書は、法務局に備え付けられています。

 どちらの法務局に行かれても、登記所は全国の登記所とオンラインでつながっているため、最寄りの登記所(法務局等)で取得することができます。

・郵送での取得

 登記事項証明書交付申請書必要事項を記入し、収入印紙(もしくは登記印紙)を添付して、切手を貼った返信用封筒(登記申請書在中と記載)を同封して、法務局に郵送します。

・オンラインでの取得

 

■手数料

・オンライン請求で登記事項証明書を法務局の窓口で受け取る場合:480円/1通

・オンラインで郵送請求する場合:500円/1通

・窓口請求の場合:600円/1通

・登記簿の閲覧:450円

 ※法務省ではオンライン請求を推奨しています。

 ➡登記手数料について(法務省)

 

手数料は、申請用紙に収入印紙(法務局の中に印紙売り場があります)を貼って納めます。

発行してもらう登記事項証明書1通の枚数が、50枚を超える場合は、50枚単位で100円の手数料が加算されます。

 

■登記事項証明書の取得にあたっての注意事項

・不動産の地番・家屋番号を間違わないようにする(住所の地番と違うことが多いです)。

 

住宅ローンの申し込みをするときには、登記事項証明書も必要書類の1つになります。

 

■登記情報提供サービス

 法的な証明力はありませんが、登記の内容を確認したい場合は、「登記情報提供サービス」の利用が便利です。

照会番号と発行年月日が入った登記情報であれば証明力があります。

 

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2018/10/23 不動産登記

 

 不動産を手に入れても登記を行わないと法的に保護されません。

不動産登記とは、不動産の種類、所有者、権利関係を記録したものです。登記の記録をまとめたものを登記記録といいます。

不動産登記簿は一般に公開されていて、だれでも閲覧することができますし、登記事項証明書を取得することができます。

登記簿とは、個々の不動産に関する登記事項を記載した登記用紙を自由に加除できるバインダー式の帳簿です。

1988年、登記事務のコンピュータ・システム化をを行うために法改正が行われました。

コンピューター化された現代では、登記簿の存在は年々薄れていっているように感じます。

登記手続きは、不動産の所在地を管轄する法務局で行います。

不動産登記は、民法・不動産登記法およびその他政令等によって規律されます。

登記手続きの専門家として、司法書士がいます。法律の条文では本人申請が原則のようですが、一般人では登記手続きを経験された人は少ないでしょうから、司法書士に依頼する方が無難です。

 

不動産登記は次のような時に必要になります。

○建物の新築・増築・解体

○不動産の購入・売却・相続・贈与

○借入金の担保設定・借り換え・完済

 

他人の依頼を受けて、報酬を得て、不動産の登記を行うことができるのは、

○表示に関する登記(建物を新築した場合などに、不動産登記簿の表題部になされる登記)は、土地家屋調査士

○表示に関する登記以外は、司法書士

 

■登記の種類

 不動産に関する登記は、「不動産の表示に関する登記」と「不動産の権利に関する登記」の2種類に大別されます。「不動産の権利に関する登記」はさらに甲区と乙区に分かれます。

 

○不動産の表示に関する登記

①表題登記

 建物が新築した場合には、建物の所在地番、家屋番号、種類、構造、床面積、建物の新築年月日、所有者の住所氏名などの表示を申請します。付属建物についても同様の内容が記録されます。

現況とは一致せず、現況と異なる場合は変更等の登記を行います。

表題登記に対抗力はありませんが、借地上の建物については例外的に対抗力を認められました。

表題登記には登録免許税がかかりません。

②土地分筆登記

 土地の一部を売りたいとき、遺産分割などで土地を分けたい場合などに行います。

③土地合筆登記

 複数所有する土地をまとめたい場合に行う登記です。

④土地地目変更登記

⑤土地地籍更正登記

 土地の登記簿上の面積と実測面積が異なる場合で、正しい面積に更正したい場合に行います。

⑥建物滅失登記

 建物を解体したり火事で焼失した場合は、建物の所有者が1か月以内に建物滅失登記の申請をしなければなりません。登記を閉鎖するために行うのが建物滅失登記です。

建物が共有名義の場合は、共有者の一人からでも申請することができます。

解体した(焼失した)建物が付属建物であったり、建物の一部であった場合には、滅失登記ではなく、表題部の変更登記になります。

  建物がなくても滅失登記をしないでいると、固定資産税の納付書が送付され続ける可能性もあります。

解体した建物が付属建物や、建物の一部である場合は、表題部の変更登記になります。

 

・建物滅失登記に必要な書類(すべてA4用紙です)

申請書(法務省)

 登記申請書の書き方(法務省)

②案内図

 解体した建物の位置を示す地図です。

③解体証明書(解体業者の印鑑証明書を添付)

 建物を解体した業者から交付してもらいます。

 解体した業者が法人の場合は法人の登記事項証明書を添付(滅失登記を申請する法務局の管轄と、業者の会社の本店を管轄する法務局が同一の場合は、登記事項証明書の添付を省略できます)

④滅失登記承諾書(金融機関の抵当権等がある場合)

⑤住所証明書

 申請建物の所有者の住所が、現住所と異なる場合は、住民票や戸籍の附票などが必要になります。

⑤相続証明書

 建物の所有者が亡くなっている場合は、亡くなった人の戸籍謄本

⑥原本還付請求書

 原本を返してもらいたい書類の請求できます。コピーを提出します。

 

滅失登記は、土地家屋調査士が代行してくれます。

 

○不動産の権利に関する登記

 権利部は、甲区と乙区の2つに分かれます。

甲区には、所有権に関する事項が記載されます。「順位番号」「登記の目的」「受付年月日・受付番号」「原因」「権利者その他の事項」が記載項目です。

乙区には、所有権以外の権利に関する事項が記載されます。

原則として、最後に書いてある情報が最新の情報です。

・順位番号

 順位番号は、登記された順番を表します。権利関係の優劣が決まります。

 甲区乙区の区を越えて登記の先後を見るためには、受付番号で判断します。

・登記の目的

 登記を申請した時の目的が記載されています

・原因

 どうしてその所有権に関する権利を得たかという原因を示しています。

 

 
【甲区】

①所有権保存登記

 建物を新築した人が、最初にする所有権についての登記を、所有権保存登記と言います。

登記簿の甲区欄(所有権に関する登記欄)なされる所有権の登記で、所有者の住所・氏名、新築の日付等が記載されます。

この登記によって、所有者は所有権を主張できます。これを法律上では対抗力といいます。

所有権保存登記を行わないと売買や相続、銀行からの融資などができません。

 

②所有権移転登記(土地、建物を売買で取得した場合)

不動産売買や贈与、相続、財産分与などで所有権を移転する登記のことを所有権移転登記と言います。

所有権を公示するもので、大切な登記です。

具体的には、所有権移転、所有権に関する仮登記、所有権抹消、差押、買戻し、破産などが記録されます。

 

③所有権登記名義人表示変更登記

 住所を移転した場合や、結婚、離婚、養子縁組などで姓や住所が変更された場合にする登記です。

この登記は、義務化されていませんので、登記上の住所と違う住所地に名義人が住んでいても違法にはなりませんが、不動産の所有権を移転したり、抵当権を設定する場合には、所有権登記名義人表示変更登記をする必要があります。

 

【乙区】

 抵当権など所有権以外の権利に関する事項が記録されています。

①抵当権設定登記

 住宅ローンなどで金融機関から資金の融資を受けた場合に、建物や土地を担保とするために必要な手続きです。金融機関を抵当権者、借入者を抵当権設定者と言います。

②抵当権抹消登記

 住宅ローンなど融資金が完済された場合に抵当権を抹消する登記です。

金融機関から必要書類一式を受け取る必要があります。

③質権設定登記

④賃借権設定登記

⑤地上権設定登記

⑥地役権設定登記

⑦永小作権設定登記

 

①~③は担保権、④~⑦は用益権です。

乙区は甲区よりも順位番号が重要になります。

 

■共同担保目録

 一つの債権の担保として複数の不動産に設定された抵当権(又は根抵当権)を一覧表示した登記事項のことをいいます。たとえば、住宅ローンを組む時には、土地と建物を担保にします。

登記事項証明書の抵当権の登記欄に、番号、担保の目的である権利の表示、順位番号等が記載されています。

対象の不動産について、その他の不動産との関係を知るために、共同担保目録は取得すべきです。目録は登記事項証明書の申請の際に請求しなければ記載されませんので注意してください。

共同担保目録を記載しても記載がなくても証明書の料金は同じです。

 

■付記登記

 登記には主登記と付記登記があります。

順位番号が付けられた登記を主登記といいます。付記登記は、主登記の付け加えられた登記で、主登記の内容を変更するために行う登記です。

付記登記は、独立した順位番号を付さず、主登記の順位番号に枝番号を付してなされる登記です。

主登記は「1番」「2番」と登記されますが、付記登記は「1番付記1号」と記載されます。

 

【付記される事項】(不動産登記規則第3条)

一 登記名義人の氏名若しくは名称又は住所についての変更の登記または更正の登記

二 次に掲げる登記その他の法第66条Wikibooks)に規定する場合における権利の変更の登記または更正の登記

 イ 債権の分割による抵当権の更正の登記

 ロ 民法第398条の8第1項又は第2項Wikibooks)の合意の登記

 ハ 民法第398条の12第2項(Wikibooks)に規定する根質権又は根抵当権を分割して譲り渡す場合においてする極度額の減額による変更の登記

 ニ 民法第398条の14第1項但し書き(Wikibooks)の定めの登記

三 登記事項の一部が抹消されている場合においてする抹消された登記の回復

四 所有権以外の権利を目的とする権利に関する登記

五 所有権以外の権利の移転の登記

六 登記の目的である権利の消滅に関する定めの登記

七 民法第393条Wikibooks)の規定による代位の登記

八 抵当証券交付又は抵当証券作成の登記

九 買戻しの特約の登記

 

■仮登記

 仮登記とは、本登記をするために必要な要件がそろっていない場合に、将来本登記をすることを前提に前もってその順位を確保するためにする登記のことをいいます。

本登記とは、所有権移転登記のように実際に権利の移転が行われたときにされる登記のことです。

仮登記は要件が整った時には本登記にできます。本登記になれば、仮登記をした日にさかのぼって効力が生じるので、仮登記より順位が後のものは、登記官の職権により抹消されます。

 

不動産登記をする際には登録免許税が必要になります。

 

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2018/10/14 不動産という言葉

 

 「不動産」という言葉が世に出たのは、一説によりますと、明治に民法の編纂が行われた際に、フランス語かドイツ語を翻訳したのが始まりだそうです。日本の民法は、フランスやドイツの民法の影響を受けています。

ちなみに不動産のことをフランス語ではlmmobiliers、ドイツ語ではlmmobilienと言い、どちらも動かなないもの(不動のもの)という意味だそうです。

民法86条には、①土地及びその定着物は、不動産とする。②不動産以外の物は、すべて動産とする。

と定義されています。

土地であったり、土地に建っている建造物、立木などはすべて不動産です。

不動産には定着物も含まれます。不動産の引き渡し時にもめることがないように、当社では付帯表を作成しています。

江戸時代、乱世が終焉し徳川家康が幕藩体制を築きますと、商業が発展し、江戸に人口が集中しました。裕福な商人や大地主が「長屋」を建て、管理と貸し出しを行うようになったのが「賃貸」の始まりです。

不動産の管理を代行して請け負ったのが「差配人」「大家」と言われる職業の人々でした。現代は「大家」というと建物の所有者とほぼ同義ですが、少し違ってたようです。

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2018/9/10 戦国時代の不動産

 戦国時代の戦国大名は、守護大名以上に、地域支配を強めていきました。

ただし、江戸時代までの土地の所有は、年貢である米の徴収手段としての所有にすぎませんでした。

1590年、豊臣秀吉が太閤検地を行い、荘園は消滅しました。

 

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2018/8/10 不動産の歴史

 

大化の改新時(645年)は、「土地はすべて国のもの」(公地公民制)でした。

すべての土地を国が管理することで、国民の間で不公平を理由とした争い事は起きにくかったのですが、もっと豊かになりたいという欲望を満たすことはできず、農民の労働意欲は得られませんでした(現代にも通じますね)。

652年には班田収授の法(はんでんしゅうじゅのほう)が発布されて、6歳以上の人民にそれぞれ決まった広さの農地(口分田という)を貸し、農民から祖・庸・調という税を課しました。口分田は6年に1回作られる戸籍によって配給されました。

祖・庸・調の取り立てはたいへん厳しいものでした。

 

農民の暮らしは苦しくなっていき、課せられた重税に耐えきれず土地を捨て逃亡する人が増えていきました。

奈良時代になると、人口が増えてきたことによって口分田は不足するようになりました。口分田不足に悩む政府は、723年三世一身法(新しく開墾した土地は、本人から孫までの3代の間は土地の私有化が認められる)を制定します。土地の所有が国から民へ移るという画期的な法でした。

三世一身法により開墾は進みましたが、三代目の後は国に土地を差し出さなければならず、私有期限が近づくと農民は耕地を放棄するようになりました。

この法は20年間しか続かず、新たに墾田永年私財法という勅(743年)が発布されました。

墾田(新しく開墾した耕地)は、開墾したものが永年私有化できるという法令です。

これを契機に私有地という考え方が広まっていき、私有地の拡大を目指すようになります。

ただし、農民が国の用水路を使って土地を開発すると、その土地は国のものになってしまうという決まりがありました。結局、資金と労力を持っている貴族、豪族、寺院しか開墾地を所有することはできません。

この土地が「荘園」と呼ばれ、本格的な土地の私有化が始まりました。

田畑の持ち主が貴族や寺院に田畑を寄付するようになり、平安時代になると、荘園は天皇の支配する田畑(公領)よりも広大になりました。

やがて律令制(701年の大宝律令によって完成された公地公民制を基礎とする中央集権的官僚体制)が崩壊していくことになります。

また、豪族が開墾した田畑は自らの力で守らなければならず、そこで武士が誕生しました。武士は、地方の豪族や有力農民でした。

荘園公領制は、11世紀中後期から12世紀初期にかけて成立し、鎌倉時代前後に最盛期を迎えました。

鎌倉時代には「地頭」が、室町時代には「守護」が、荘園領主から年貢を取り立てる役割をもち、徐々にその年貢の裁量権を持ち始め、事実上支配者として彼ら自身が荘園に対する支配権を強めながら、時代は戦国期へ移行していきます。

 

初期荘園(墾田地系荘園)

 主に8世紀から9世紀にかけての土地の所有形態で、初期の荘園には田祖という税金がかかりました(輸祖田)。したがって、国司(国の行政官として派遣された官吏)による介入もありました。

初期荘園の所有者は開墾した土地を農民に貸して収穫物の20%を徴収しました。

朝廷にコネのある一部の有力な荘園領主は国家から田祖の免除を勝ち取りました。田祖を免除された田畑を不輸祖田(ふゆそでん)といいます。

国司が派遣した検田使などの立ち入りを拒否することができる不入の権をもつ荘園も増加します。

人々は重い税を逃れるため、そのような荘園に土地を譲る(寄進=名目上の寄付です)ようになりました。これを寄進地系荘園と言います。

寄進地系荘園は10世紀の終わりから11世紀にかけて一般的な土地の所有形態となっていきました。

寄進と言っても基本的には有力荘園領主の名義貸しです。書面上は有力領主のものとなりますが、実態としての土地の保有・管理状況に変わりはなく、その代償として寄進をした人々は、有力荘園領主に名義貸し料を納めていました。

荘園で収穫された農産物を納める蔵を「庄所」とよび、地名を付けて「○○庄」と呼びました。

周防大島町の安下庄(あげのしょう)も中世では荘園だったそうです。私は子供のころから、変わった地名だなと思っていました。

初期荘園には2種類あります。農民を雇い自分で開墾した「自墾地系荘園」(地方に多い)と、人が開墾した土地を買い取る「既墾地荘園」(畿内に多い)です。

多くの初期荘園は、特定の荘民をもたず、国家機構やその地域の有力者などに依存して労働力を確保していました。厳しい労働環境だったらしく、逃亡する農民が後を絶たず、律令制が解体する9世紀以降、初期荘園は衰退していくことになりました。

 

■寄進地荘園(11世紀~12世紀)

 初期荘園は私有地であっても納税が必要な、あくまでも国家機構に依存した荘園でした。

朝廷から派遣された国司たちの厳しい徴税に苦しんでいた開発領主たちは、中央の権力者に土地を保証してもらうため、土地からの収益権を寄進する動きを強めていきました。

寄進するメリットは、不輸の権(税が免除になる)と不入の権(国司に派遣される検田使の立ち入りを拒否できる権利)です。

寄進地荘園によって一気に栄えたのが、朝廷内のボスだった藤原氏(藤原氏のことを書くと長くなります)だったそうです。

寄進地系荘園が成立すると、初期荘園もその中に自然に組み込まれて解消していきました。

荘園は8世紀から16世紀まで約800年続きました。

最終的には、1580年の太閤検地によって荘園は解体しました。

 

■公領(国衙領)

 公領とは天皇の土地のことです。国衙領は、平安時代中期頃以降の公領を、荘園に対して呼ぶ歴史学用語です。

公領は別名国衙領(こくがりょう)とも言われました。

国衙領は国司の私腹を肥やすために利用さてることが多くなりました。

国衙領は鎌倉幕府が成立すると次第に守護・地頭の勢力のもとに置かれるようになりました。

防府市にも国衙という地名があります。”ごっつい”地名だなと思っていました。

私は行ったことがありませんが、調べてみると、周防国衙跡があり、土塁も一部残り、多量の器類も発見されているようです。

全国の国府跡の中では最も早く国の史跡に指定された(昭和12年6月)そうです。

 

■公営田(くえいでん)

 律令制は、戸籍・計帳を元にして農民・人民を把握し、口分田を班給する代わりに租税を付加するという支配体制ですが、8世紀後期ごろから租税負担を回避するために逃亡・浮浪する農民が増加し、律令制は崩壊してゆきました。

公営田は大宰府の運営費用を賄うために作られた直営田です。

公営田の耕作にかり出された農民たちにはきちんと報酬が支払われ、税も免除されたようです。

 

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2018/7/10 西日本豪雨

 

平成30年7月5日からの豪雨災害により、被災された皆様には心よりお見舞い申し上げます。

降り続く豪雨による土砂崩れの被害が続発しました。

周南市でもおひとり亡くなられたようです。

被害状況のわからぬ私は、雨が上がった直後、下松市に住む本籍が光市のAさんに、「戸籍謄本を1通取られてください」と電話で伝えました。

後日Aさんから「下松から光市に続く海岸線はひどい渋滞で途中から帰ってきました」との電話がありました。

知らなかったこととはいえ、無神経なことをしてしまいました。すみませんAさん。

あの海岸線の道路が土砂で一時通れなくなっていたとは信じられない出来事です。子供のころから何度も行き来していた道路が通れなくなったのは、私の記憶にはありません。

「そしたら、線路(山陽本線)も埋まっているのですか」とAさんに尋ねました。

あんた何を言(ゆ)うちょるの、というような声で、「埋まっています。線路は道路よりも山手ですから」

日が経つにつれて、近場の被害状況が耳に入ります。

熊毛地区の岩徳線の被害、下松市笠戸島の県道通行止めによる住民の孤立、光市島田川の氾濫等。

災害が起きるたびに思うのですが、当初の情報量の少なさから、被害者の人数や被害カ所は日増しに増えていきます。耳をふさぎ、目を閉じたいのですが、もう片方の耳で目で、現実を受け止めなくてはなりません。われわれが生きて直面している出来事なんですよね。

建設会社を経営している友人がいます。

災害直後から、下松・光間の線路復旧、岩徳線の復旧について立て続けに役所から相談があったそうです。

友人の人柄からして、何とかしたいと思う気持ちが人一倍沸き上がったものですが、いかんせん従業員の方々には日々に組み込まれた仕事があります。

「全部は受けられん。同じ地域に住む者として、断るのも辛い」

現在、友人とその会社の従業員の方々は、時間を割いて、復旧作業を日々続けています。

「できることはやる。できんことまではできん」

私は、なにも答えられず、その日は酔いつぶれてしまいました。

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2018.7.2 壬生義士伝

 

 盛岡の南部藩を脱藩した主人公・吉村貫一郎が故郷に残した家族を養うために命を張って新選組で生きていく漢(男)の物語です。

吉村貫一郎は浅田次郎が作り出した架空の人物だそうですが、そのモデルになった人々は数多くいたと思われ、明治維新の時代に力強く生きていたのは、長州の人々だけではなく、日本全国各地に歴史に残る残らないにかかわりなく、大勢の人々がその時代を懸命に力強く生きていたのです。

あたりまえのことでした。しかし、私は「壬生義史伝」を読み、映画も観た時にそのことを深く教えられました。鈍い人間です。

「勝者が歴史を作り、敗者が小説を作る」とか言われますが、まさしく勝者の歴史に包まれて育った私は、吉田松陰をはじめ長州や薩摩の人々はこの国をよりよくするためのエネルギーにあふれ、幕府を始め他藩の人々は、現状を良しとして時代に取り残され犠牲になったのだと思っていました。

「おもさげながんす(申し訳ありません)」

 

「壬生義士伝」は、新撰組隊士の吉村貫一郎の義理と愛を貫く姿を描いた作品で、2000年に第13回柴田錬三郎賞を受賞しています。

浅田次郎の長女が岩手の医科大学に入学したことから、何度か岩手を訪れ、南部藩士を題材にした作品を作ろうとしたのがきっかけだそうです。

 

ある日、一人の剣士・吉村貫一郎が新選組に入隊します。

吉村は南部藩の藩校で剣を教えるほどの腕前でしたが、剣術の腕前、学問があっても鼻にかけることがない。…人間の鏡のような人物です。

大義のためには己の命をも顧みない隊士たちの中にあって、恥ずかしげもなく命に固執し、何かにつけてはお金に執着する貫一郎の姿は異彩を放ちます。

吉村が守銭奴なのは、盛岡の貧しい妻子へ仕送りをするためだったのです。

大政奉還があり、新撰組は逆賊として薩摩、長州軍で構成される官軍に追われる身となります。

鳥羽伏見の戦いでは、幕府軍の会津藩兵や新選組隊士の前方に騎兵隊の軍楽隊が近づいてきます。

「ピーヒャラドンドンドン、ピーヒャラドンドンドン……」

薩長軍は錦旗を掲げています。これはたまりません。いつの間にか賊軍になっているではありませんか。幕府軍は戦意喪失です。

撃ち倒された幕府軍の骸のただなかで、吉村が叫びます。

「新撰組隊士吉村貫一郎、徳川の殿軍ばお努め申っす。一天万乗の天皇様に弓引くつもりはござらねども、拙者は義のために戦ばせねばなり申さん。お相手いたす」

撃たれても立ち上がり、なおも戦おうとするその姿に、新撰組の仲間たちは「逃げろ、お前は生き延びるんだ」と激励し、彼を戦場から逃がします。

 

「わしが立ち向かったのは、人の踏むべき道を不実となす、大いなる不実に対してでござんした。

わしらを賊と決めたすべての方々に物申す。勤王も佐幕も、士道も忠君も、そんたなつまらぬことはどうでもよい。

石をば割って咲かんとする花を、なにゆえ仇となさるのか。北風に向かって咲かんとする花を、なにゆえ不実と申さるるのか。

それともおのれらは、貧と賤とを悪と呼ばわるか。富と貴とを、善なりと唱えなさるのか。

ならばわしは、矜り高き貧と賤とのために戦い申す。断じて、一歩も引き申さぬ。」

 

吉村は大阪の盛岡南部藩屋敷に満身創痍で紛れ込みます。蔵屋敷差配役の旧友大野次郎座衛門は苦悩を包み隠して、貫一郎に切腹を命じます。

 

次郎衛は貫一郎の亡骸を抱き起し、

「食(け)え、寛一。しづ(妻)も嘉一郎(長男)も、お前(め)のおかげで腹は一杯(いっぺえ)じゃ。んだば、お前が食え。南部の米じゃ。花巻の米じゃ。北上川の水で育った、盛岡の米じゃ。後生じゃ寛一、今一度この目ば開けて、南部の百姓が丹精込めて作った米ば、腹一杯食って呉(け)ろ。のう、寛一、後生じゃ」

 

大野次郎右衛門は、貫一郎と死別した後、盛岡へ帰ると、「薩長につくか、幕府側につくか」の意見を求められます。

お家大事の一念で、ことを穏やかに運んでくれるに違いないはずの次郎衛が、

「薩長は断じて官軍にあらず、会津討つべからず」

大勢は決している最中の絶望的な決断でした。

大野次郎右衛門は南部藩兵を率いて薩長側についた秋田藩へ進撃し、連戦連勝を重ねますが、新政府軍の参戦によって敗北しました。捕らわれた次郎衛門は斬首されました。

 

嘉一郎が脱藩した時、次郎衛門が生前、息子・千秋に語り掛けた言葉があります。

「千秋、吉村先生は義のために国ば捨てたのじゃ。むつかしい理屈は言わんでもええ。もし万が一、藩校にて嘉一郎が責めを受くるようなことがあれば、お前(め)は身をもって嘉一郎ば守れ。嘉一郎が腹ば切るというのなら、お前もともに腹ば切れ、決して友の難儀をば、指くわえてみておるではねぞ。父も寛一のためだれば、いつでも命ば捨て申(も)す。お前も嘉一郎のために命ばかけ申せ。これは組頭と組付足軽のことではねぞ。竹馬の友だれば当然のことじゃ」

 

「あの少年の友であるという矜(ほこ)りだけで、私は半世紀の艱難に耐えてくることができたのです」(千秋)

 

貫一郎の子、嘉一郎は、函館の地での今際の際に母へ語りかけます。

「母上様。

嘉一郎は一足お先にあの世へと参(めえ)りあんす、逆縁の不幸をば、お許しえってくだんせ。」

「母上様。

最後の最後にひとっつだけ

嘉一郎は父上と母上の子でござんす

そのことだけで、天下一の果報者にてござんした

十七年の生涯(しょうげえ)は牛馬のごとく短けえが

来世も父上と母上の子に生まれるのだれば

わしは十七年の生涯でで良がんす

いんや七たび十七で死にてえと思いあんす

母上様。どうか来世にても、父上と夫婦(めおと)になり

嘉一郎ば生んでくだんせ

お願えでござんす母上様

んだば」

 

ひたすら単純律儀で、愚直なまでに勤王を信じてきた盛岡の人々。それらの思いが裏切られても、愚直なまでに戦い、武士の道に準じた盛岡の人々のことを知り、頭を打たれ、目を開かされた思いがあります。

                         (「壬生義士伝」(浅田次郎)より抜粋)

 

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西郷どんと愛加那

2018.6.23 西郷どんと住まい

 

NHKの大河ドラマを毎年観ています。

山口県で生まれた私は、子供のころ、明治維新で活躍したのは吉田松陰をはじめ高杉晋作、桂小五郎など長州出身の人々だけだと思っていました。

司馬遼太郎の「竜馬がゆく」を読んで、坂本龍馬が大好きになり、坂本龍馬の本を読み漁りました。

10年前くらい前に、浅田次郎の「壬生義士伝」を読んだ時には、頭を打たれたような衝撃を覚えたものです。

壬生義史伝については後日、私が受けた感動を書いてみたいと思います。

 

西郷どん(西郷隆盛)を嫌いだという人は少ないと思います。

近所でばったり出会って、「こんにちわ」と声をかけると、吸い込まれそうな大きな目を細めてにっこり笑い「こんにちわ、よか天気でごわすな」と、温みのある言葉が返ってきそうな大きな人物のイメージがあります。大人物の典型として語り継がれてきたのでしょうね。

 

西郷どんと不動産のかかわりについて書いてみようと思います。

 

西郷どんが20歳のころです。

11人の大家族で、暮らしはひっ迫しています。祖父の龍衛門は病で寝込みます。

西郷どんはたまりかねて、父の吉兵衛に、

「いっそ家を売って金を作りもんそ」と訴えますが、

「バカたいが! 武士が家を売るち、そげん恥ずかしかこっができっか!」と一蹴されます。

しかし、家計はいかんともしがたく、赤山靱負の紹介で廻船業商の板垣から計200両を借りることになります。

西郷家はこのあと、明治維新後まで借金の返済に苦しんだそうです。

 

当時の薩摩藩も、おそらく日本国中の各藩と同じように、豊かな暮らしではなかったと思われますが、家を売るとして買い手がいるのか、不動産の金銭価値がいくらぐらいであったのか、不動産会社のレックとしては気になるところです。

後日、不動産の歴史を書いてみたいと思います。

 

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2018/6/6 ブログ開始

 

ブログを始めてみます。

大したことは書けないでしょう。その時の私の力量です。私の思いに伝わるものがあれば、メールをください。

「君たちはどう生きるか」(吉野源三郎)を読んで、私も何かを書いてみたい、伝えたいと思い立ちました。思ったことだけを書いてみます。今は少し熱くなっているので、ブログが続くものかどうかはわかりませんし、間隔が開くかもわかりませんが、一人でも多くの人に寄り道をしてもらえると幸せです。

「君たちはどう生きるか」

感動しました。「世の中を回している中心なんてもしかしたらないのかもしれない。誰かのためにっていう小さな意思がひとつひとつつながって、僕たちの生きる世界は動いている」

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