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■吉田松陰と寺嶋忠三郎(ちゅうざぶろう)決別の地
所在地 周南市大字呼坂西町640
安政6年(1859年)5月松陰が萩野々山獄から江戸に移される途中、高水村を通過するときに、松陰の弟子寺嶋忠三郎が師と無言の別れを告げた場所です。
忠三郎から久坂玄瑞にあてた手紙によると、「縄付き、護送役人番人30名という警戒ぶりのうちに松陰先生は籠の中で静かに本を読んでいた」忠三郎は声をかけることができなかったようです。
寺嶋忠三郎は、16歳で松下村塾に入り吉田松陰の弟子となり、尊王攘夷運動に尽くしましたが、禁門の変に際して久坂玄瑞とともに自刃ました(享年21歳)。松下村塾の三弟子の一人に数えられています。
石碑には、
「かりそめの今日の別れは幸なりきものをも言わば思いましなん」松陰
「よそに見て別れゆくだに悲しさを 言にも出でば思いみだれん」忠三郎
と刻まれています。
■呼坂本陣跡
防長両国を東西に通じる山陽道は古くから開け、南北朝時代の旅日記「道ゆきぶり」に現在の呼坂の地名が「海老坂」と記されています。
山陽道呼坂宿において、参勤交代の大名などの休憩・宿泊の場所でした。
■若山城跡
若山城は、周防国都濃郡富田(現周南市)にあった山城です。県指定史跡です。
大内氏の重臣陶氏の本城として文明2年(1470年)陶弘護(もしくは弘政)が津和野城の吉見氏の侵攻に備えて築いたものと考えられています。
この城は、連郭式城郭と呼ばれる中世山城の典型的な特徴を示し、山頂(標高217m)の本丸を中心にして、東に二の丸、三の丸、西に西の丸、蔵屋敷が配置され、竪堀など防御施設の遺構が遺されています。
城跡と登山道には桜が植樹され花見の名所になっています。
二の丸までは車で登ることができます。
天文19年(1550年)主君大内義隆と対立した陶隆房(陶晴賢)は、謀反に備えて若山城の修復を行い、翌年、陶隆房は挙兵しました。大内義隆は大寧寺で自害しました(大寧寺の変)。
陶隆房は、九州の大友氏から一時期義隆の養子に来ていた大内義長という人を新しく当主につけています。
弘治元年(1555年)の厳島の合戦で陶晴賢が討ち死にし、若山城を守る晴賢の子長房は晴賢に遺恨のあった杉重輔とその手勢200人余人に急襲され三の丸を占拠された。長房は城を脱出しましたが追撃されて自刃しました。
彼の領国が毛利氏によって接収されるに及んで、城も廃城となったのではないかといわれています。