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歴史・文化

孝女「お米」の碑 やげん谷一里塚 長野山 癒鶴地えいかくち) 岸田劉生記念碑

与謝野鉄幹の歌碑

やげん谷一里塚(アメブロ

やげん谷一里塚

 やげん谷一里塚(やげんだにいちりづか)は、周南市中須仏峠に位置する史跡です。江戸時代に整備された「往還道(おうかんみち)」と呼ばれる街道沿いに築かれた一里塚の一つで、小郡と高森を結ぶルート上にあり、高森から4番目の一里塚にあたります。

一里塚は、江戸時代に街道沿いに一里(約3.9km)ごとに設けられた塚で、旅人の道しるべや休憩所としての役割を果たしていました。多くの一里塚は、幕末の動乱や近代の道路拡張工事などで失われましたが、やげん谷一里塚は現在もその姿をとどめており、貴重な歴史遺産として保存されています。

やげん谷一里塚は、昭和62年(1987年)4月23日に周南市の史跡として指定されました。現在でも案内標柱が設置されており、訪れる人々にその歴史を伝えています。

■アクセス

・所在地:周南市中須仏峠

・アクセス:JR山陽本線「徳山駅」から車で約40分

・最寄りの公共交通機関:周辺に鉄道駅はなく、最寄りのバス停「檜余地上(ひよじがみ)」から徒歩約46分

・問い合わせ先:周南市教育委員会(電話:0834-22-8622)

癒鶴地(周南市

癒鶴地(えいかくち) 

 癒鶴地は、周南市八代地区にある「蔓の墓」として知られる史跡で、鶴と人との深い関わりを象徴する場所です。この地は鶴の保護活動の象徴としても重要な意味を持っています。

■鶴の墓の由来

 1895年(明治28年)の春、シベリアへ向かう途中の鶴の群れの中で、銃弾により傷ついた1羽の鶴が八代の桃木峠に落ちました。これを見た地元の農民・瀬来幸蔵が自宅に連れ帰り、50日以上にわたって看病しましたが、鶴は命を落としました。幸蔵は深く悲しみ、僧侶を招いて手厚く供養し、自宅の裏山に自ら墓碑を刻んで埋葬したと伝えられています。

■癒鶴地の移設と慰霊祭

1921年(大正10年)、この鶴の墓は現在の古本神社境内に移され、「癒鶴地」と名付けられました。それ以来、八代で命をなくした鶴はこの地に埋葬され、毎年12月には慰霊祭が行われています。

■八代と鶴の関係

 八代地区は、本州で唯一のナベズルの渡来地として知られ、明治20年から鶴の保護活動が始まりました。この活動は日本の近代自然保護制度の先駆けとされ、八代村全域は1921年に天然記念物、1955年には特別天然記念物に指定されました。

○問い合わせ:鶴いこいの里交流センター(TE0833-92-0003)

岸田劉生記念碑

 日本近代洋画の巨匠・岸田劉生(1891年~1929年)を顕彰するために建立された記念碑です。この碑は、彼の芸術的功績を称え、地域文化への貢献を記念する目的で設置されています。 

岸田劉生は、明治から大正時代にかけて活躍した洋画家で、特に写実的な肖像画や風景画で知られています。彼の代表作には、娘をモデルにした「麗子像」シリーズがあり、日本の近代美術史において重要な位置を占めています。また、彼は文筆家としても活躍し、美術評論や随筆なども多数執筆しました。

■芸術思想

 ・劉生は、単なる「写実」にとどまらず、「写実の中の精神性」を強く重視しました。

 ・「内面的真実を描く」という思想は、彼の芸術論や随筆にも色濃く表れています。

 ・東洋と西洋の融合を目指した先駆者でも後の日本画日本画・洋画双方に影響を与えました。

■記念碑が周南市にある理由

 岸田劉生の記念碑が周南市に建立されている理由について、明確な情報は見つかりません。岸田劉生は東京出身で、山口県との直接的な関係は確認されていません。しかし、彼の芸術的功績を称えるために、地域の文化振興の一環として記念碑が設置された可能性があります。また、周南市が彼の作品や思想に共感し、その遺産を後世に伝える目的で記念碑を建立したとも考えられます。

与謝野鉄幹の歌碑(アメブロ

与謝野鉄幹(よさのてっかん)の歌碑 

 周南市の太華山山頂には、明治・大正期の歌人・与謝野鉄幹の歌碑が建立されています。この歌碑は、鉄幹が青春時代を過ごした徳山への思いを詠んだ短歌を刻んだものです。

与謝野鉄幹は明治22年(1889年)から4年間、兄・照幢(しょうどう)が経営する徳山女学校で国語と漢文の教師を務めました。その後、上京して新詩社を結成し、文壇で活躍しました。昭和9年(1934年)、久しぶりに徳山を訪れた際、青春時代を思い出し、感慨を込めて読んだ20種の短歌を残しています。そのうちの一首が、太華山山頂近くの広場に歌碑として建てられています。

彼のあたり二十の前の我を知る 蛇島 仙島 黒髪の島

この歌は、太華山から望む瀬戸内海の島々(蛇島、仙島など)を背景に、若き日の自分を重ね合わせたもので、鉄幹の郷愁と詩情が感じられます。

■与謝野鉄幹

 1873年(明治6年)2月26日~1935年(昭和10年)3月26日

 日本の明治・大正期を代表する歌人・詩人・評論家であり、近代短歌の革新を主導した人物です。また、後に著名な歌人となる与謝野晶子の夫でもあります。

○基本情報

 本名:与謝野寛

 生年没年:1873年(明治6年)2月26日~1935年(昭和10年)3月26日

 出身地:京都府京都市

○主な業績と活動

1.新詩社の設立と「明星」の創刊

 ・1899年(明治32年)、文学団体「新詩社」を設立。

 ・1900年(明治33年)、文芸誌「明星」を創刊。これが明治時代の文学青年達に大きな影響を与えました。

 ・「明星」は、感情表現豊かで革新的な短歌を特長とし、それまでの格式張った和歌からの脱却を促進しました。

2.与謝野晶子との関係

 ・弟子だった与謝野晶子(本名:鳳志やう)が才能を開花させるきっかけを与えました。

 ・晶子の処女歌集「みだれ髪」(1901年)を出版したのも鉄幹で、冬至の常識を破る情熱的な内容は物議を醸しました。

 ・二人は後に結婚し、文学界のカリスマ夫婦として広く知られるようになります。

3.代表的な歌の一例

 「人を恋うる歌を詠むべし、国を愛する歌を詠むべし」

または、彼の詩的言語は以下のように表現されることが多いです。

 「我は鉄幹、火を吐く男、詩歌によりて国を愛す」

彼の詩は力強く、情熱的で、ナショナリズムと個人の感情の交錯が特色です。

4.家族と子孫

 ・妻:与謝野晶子

 ・子供:13人(長男の与謝野秀は政治家・文筆家)

 ・孫:与謝野馨(政治家、元財務大臣)

5.評価と影響

 与謝野鉄幹は、短歌の形式や主題において旧来の伝統を打ち破り、より人間的で自由な表現を目指した先駆者でした。その革新性は後の石川啄木や北原白秋など多くの歌人に影響を与え、近代文学の基礎を築いた一人とされています。

○与謝野鉄幹と与謝野晶子の関係

 ・与謝野晶子は堺市の老舗和菓子店の娘として産まれ、若くして文学に関心を持ちました。

 ・晶子は鉄幹が主宰する「新詩社」の同人となり、文芸誌「明星」に短歌を投稿し始めます。

 ・その中で晶子の強烈な個性と才能に惹かれた鉄幹は、師弟関係から次第に恋愛関係に発展します。

 ・鉄幹は当時すでに妻子がいましたが、晶子との関係を公にし、妻と離別しました。

 ・世間の非難を浴びながらも、1901年(明治34年)頃から事実婚関係となり、その後正式に結婚しました。

 ・以降は二人三脚で創作活動を続け、13人の子をもうけます。

 ・鉄幹は晶子の処女歌集「みだれ髪」(1901年)を編集・出版し、序文も執筆します。

 ・「みだれ髪」は従来の封建的価値観から解放された、情熱的で官能的な短歌が並び、大スキャンダルになります。

 ・代表歌:「やは肌の あつき血汐に ふれも見で さびしからずや 道を説く君」

  この歌は、鉄幹への恋慕を赤裸々に詠んだもので、明治の歌壇に革命を起こしました。

 ・鉄幹の代表歌

  妻をめとらば才たけて みめうるわしく情けある

  友をえらばば書を読みて 六分の侠気四分の熱